想い出の洋館は薄暗く


 先月の句会では、近隣で見た花を材にし、泰山木(タイサンボク)を詠んだ。このブログでは、泰山木は二回目。今回は、前回とは異なる少年時の、別の記憶を書く。

 

 

 子どものころ、百メートル余り離れた小高い丘の中腹に、古い洋館が建っていた。その庭には、クヌギ類の落葉樹が多かったから、冬場は建物の輪郭もよく見えた。

 しかし、夏になると、鬱蒼とした樹木に覆われ、我が家の庭からは、尖った三角屋根の一部が少し見えるだけとなる。門扉は、古風な木製で丈高く、すでに細部が朽ち始めており、「家の中はどんな具合なのだろう」と興味が湧いた。

 洋館のご主人(F氏)は、有力金属メーカーの社長だったらしい。まだ、住宅が30戸足らずの起伏に富んだ地区にあり、我が家とは同じ町内会。奥さんと母とは会えば話をし、父もF氏とは顔見知り。

 後年、父に聞いた話では、仕事帰りに駅近くの店で、F氏はしばしば酒の立ち飲みをしてから帰宅していたらしい。老いて体力が落ち、「一杯飲まないと、あの坂道を登る気力がわかないんですよ」と父に言っていたそうである。

 昭和30年代に入ったばかりで、まだ日本国全体が貧しかった。国産車は欧米より性能が劣り、自動車産業を一人前にしようと官民一体で努力している真っ最中である。大企業の社長であっても、社用の車で送迎されるような時代ではなかったということか。

 老齢で会社勤めをしていた父も、やはり帰りに一杯やったのであろうか。F氏が立ち寄ったのは、酒場でなく酒屋だったと、後になって気が付いた。酒屋に立ち飲みコーナーがあるのに気が付いたのは成人後である。酒屋の利用は、同僚に誘われた会社近くの店で、50歳過ぎ。店内の缶詰や豆・裂きイカがつまみで、便利かつ安いと感心した。

 F氏が亡くなられたのは、たぶん私が小学生高学年のころ。葬儀は神道で執り行われ、じめついた暗さのない儀式が好ましかったと母が言う。洋館の周囲に張られた邸内の白いテントが灯りに映え、我が家からも木の間隠れに見えて美しかった。

 後日、F氏の門前に立つと、庭の泰山木が見事であった。光沢のある葉が強く印象に残っている。香水として知られる「マグノリア」の芳香は、そのときは、漂っていなかった。花期ではなかったのだろう。

 

タイサンボク(山田案山子さん提供)

 


 泰山木咲く庭ひろし箒の目   (ひとみ)

 あのころは、朝鮮戦争が休戦状態になって数年経ったころで、ハンガリー動乱とか、スエズ紛争とか、「第三次世界大戦」前夜みたいな、危ない時代でしたっけ。

 いまは新型コロナ禍で大変だけれど、昔は昔で、違った不安がかけめぐっていた。

 

 タイサンボクについての蘊蓄は、山田案山子さんのHPがくわしい。