手元の切符は、行先不明の特急券


われわれはどこへ行くのか?


松井孝典 著 ちくまプリマー新書 定価:本体700円+税



 本書の初版は2007年2月と少々古い。でも、いま読んでも、惑星物理学・アストロバイオロジーの初心者には役立つこと請け合い。

 表紙カバーには、こんな惹句が書かれている。

われわれとは何か?/文明とは? 環境とは? 生命とは?/宇宙の始まりから人類の運命まで、/壮大なスケールの、地球学的人間論。

 東大の名物教授だった松井には、『宇宙人としての生き方』(岩波新書)とか、『138億年の人生論』(飛鳥新社)、『地球システムの崩壊』(新潮選書)など、理屈っぽい難解な内容を想起させる書名の著書が、ゾロゾロ出回っている。

 じっさい、昔、月刊誌「中央公論」に連載された彼の記事など、独りよがりの難解な内容でヘキエキしたものである。本書もある意味、おんなじ。理屈が勝った、「松井節」絶好調(舌口調)の内容である。

 ただ、揶揄して非難し、本書を黙殺するのは了見が狭い。彼の学問的立ち位置だから指摘できる、独特の鋭く、重みのある意見がたくさん語られているのだ。そのいくつかを採り上げよう。

 画家ゴーギャンが描いた、畢生の大作『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』は、いま歴史学者や生命科学者などの間で、さかんに使われるキャッチコピーとなっている。

  とりわけビッグヒストリーの分野では、「どこから・何者?・どこへ」は、必ず自問すべき論点で、『ビッグヒストリー入門』『サピエンス全史』『ホモデウス』などでも、構想の基礎・支柱である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 惑星物理学・アストロバイオロジーは、当然ビッグバンから始めて、ヒトは将来どうなるかという「ビッグヒストリー観」を持たざるをえない。

 松井らの学問分野では、「われわれ」は「地球システム」の中に「人間圏」をつくって生きていると見る。

 「地球システム」という概念は、1980年頃から提唱されだしたもの。構成要素(コア、マントル、プレート、海洋、陸地、大気など)と、構成要素間の関係性(相互作用)、そして駆動力(太陽エネルギーや地球内部の熱など)の三つが三位一体となって、地球システムを構成しているとする考え方。

 このシステム観に立つと、惑星や地球の誕生、海洋や大気の生成、生命の誕生、ヒトなどの生物の発生などが見通しやすくなる。

 また、「地球システム」という概念で、現生人類を見て行くと、狩猟採集生活時代と、農耕時代とでは、生息環境への相互作用の程度がはっきり変わってくる。狩猟採集が主たる生活の仕方だったころは、自然環境の改変は微小だった。ところが、農耕が始まると、灌漑や焼き畑、森林の開墾、住居を作っての定住などで、自然環境への改変が積極的大規模に行われるようになる。

 換言すると、狩猟採集時代は「生物圏」に生き、農耕が始まって「人間圏」に生きるようになったことになる。そして産業革命以前は、「フロー依存型人間圏」で、石炭や石油などを利用するようになると「ストック依存型人間圏」と捉えられるとする。

 これ、ビッグヒストリーと軌を一にする考え方である。ハラリの『サピエンス全史』と同類の発展段階説ともいえる。

 この後が、松井の意見の独創的なところ。「ストック依存型人間圏」の中で生き続けるのであれば、資源が枯渇したら、人類は滅びる。それは、今世紀半ばにはくるかもしれない。なぜなら──

 今われわれが一年生きるために動かすモノやエネルギーの移動速度は、地球の営みとしてのモノやエネルギーの移動速度の、一〇万年分に相当するのです。(後略)

 つまり、人間圏ができてから(農耕が始まってから)一万年経ったとすると、この一万年は生物圏時代の1万倍、10億年に相当する。それほど時間を速めている。加速度的に資源を枯渇させ、環境の激変に拍車をかけ続けている。これが、環境問題の本質なのだと。

 どうです。理屈っぽいでしょ。でも、素朴に感心した部分もありました。

 天文学上の大発見とか、地球の中心部の構造とか、恐竜の絶滅がどんな原因だったとか、地球に海洋がどのようにして出来たとか……、そういうもろもろの研究成果が続出し始めたのは、ハッブル天体望遠鏡の設置、コンピュータの能力向上のおかげなんですって。この20~30年、宇宙のことや地球のことが、ようやくきちんと計算して、わかるようになったのだそうである。

 なんだか、カーツワイルの「シンギュラリティが近い」みたいな世界を彷彿させて、薄気味悪い。「指数関数的に、時の流れも速まるのか?」なんて。