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日本の教育の最大の問題点は、教育の意義の喪失にあると考える。教育内容には客観的に意味があるのか、つまり何のための、誰のための教育かが明確になっていない点である。
日本経済新聞(2009年2月16日)に記載がある、千葉県立姉崎高校の取組みは、義務教育内容の復習により、生徒の弱点を補う学習や基礎学力向上を目指している。この取組みの背景にはいくつかの問題がある。第一に、義務教育内容は義務教育段階で身につけさせるものである。第二に、教育内容を身につけさせずに、中学校を卒業させてしまっている現状である。第三に、教育内容が身についていなくても高校へ入学できているという点である。では考えられる理由はなんであろうか。第一の問題は、教師や学校の指導力の不足、生徒の学習意欲の不足が疑われる。第二の問題は、身につけさせずにそのまま卒業をさせてしまう学校制度の問題だ。第三の問題は、入試そのものに意味があり、義務教育内容に客観的に意味があるのかということが疑われる。これは二つの問題点の根本的な理由であり、学びの内容に意義を感じられず、教えられず、学べず、望まれる学校間接続ができていないのではないか。教育の意義(レリバンス)について、本田(2005)は①即自的、②市民的、③職業的の三点に分類している。これによると、①は個人に有益、②は個人と社会、③は社会に有益だという。果たして、学校教育で意義深い学びは展開されてきたのか。「何のために学んでいるのか」という問いに教師が答えられない、これが意義の喪失の一つの現れだろう。
これまで教師、子どもたちは、教育の意義というものを受験や試験制度に頼ってきた、つまり試験制度そのものに学ぶ意味を見出してきた。受験に有益な内容が意義深いとされ、他の内容は軽視されていたのではないか。高校未履修問題もこの文脈で語ることができるだろう。そうではなく、学びそのものに自分の存在や、自分の将来を見出せるような内容を充実させるべきと考える。養老(2003)は「知るということは、知識が増えることではなくて、その人自身が変化すること」と述べている。教育の意義とはこれにつきるのではないか。学ぶ楽しさ、市民としての教養、職業に就く上での能力や態度を学ぶことで、自身が変化するということである。これは、個人にとっても社会にとっても有益なものである。センター試験を始め、試験制度は知識量の測定である、学ぶことで何かを知り、自身が大きく変わると実感した体験はこれまであっただろうか。これでは学びの意欲は起きず、変化の実感も得られないだろう。この根底は義務教育段階から変革しなければならない。
解決策として、教育の意義を明確にすることが求められる。これには、制度・実践レベルでのアプローチが求められる。制度レベルでは第一に、学習指導要領を緩和し教育内容・課程の編成(カリキュラム・マネジメント)を各学校独自で行う。学校・教師が課程編成を通し意義を自覚していく必要があるのだ。これは教師の負担が増大するという批判があるだろうが、第二にこの課程編成には教師や学校だけではなく、進学前後の学校、地域や企業と共同で行われるべきと考える。現行より社会に有益な意義を表出させ、伝達することが期待できる。教師はこの社会、前後の学校から求められる要請のコーディネーターとなる。これにより点ではなく面での教育も成り立つ。また、子どもたちは市民として、職業を持ち社会に旅立つのだから、「社会では学校で学んだことは不必要だ」という常識を問い直すことができる。実践レベルでは、教師が意義を伝達し、子どもたちも意義を見出すことができることが必要だ。しかし、学びに実存的な意味を見出すべきは子どもたち自身である。教師は意欲を喚起する存在、子どもたちを変える「師」としての在り方を求められる。つまり、自ら学ぶ楽しさに傾倒し、何のための学びかを身を持って伝えられる存在ではないだろうか。