佐藤安弘のブログ

佐藤安弘のブログ

佐藤安弘のブログ

Amebaでブログを始めよう!

北大の名物監督・今宮明男さんが、お亡くなりになったのは、今から8年前の秋だった。その時の追悼特集に書いた文なのだが、話の筋として、どうしても外せない。
━━━札幌郊外の里塚斎場には、静かな雨が落ちていた。今宮さんの葬儀の大詰め、ポツンとたたずむ俊子夫人は全身で泣いていた。2003年(平成15年)9月25日初秋、昼というのに、冷たく、寒かった。
 僕が在学当時、俊子夫人は、いつも2人の子供を連れて、中島公園や円山球場に、今宮さんが指揮する僕達の試合の応援に駆けつけてくれていた。そうした情景から「なんて仲の良い夫婦なんだろう」と受け止めていた思いが、今でも鮮明に浮かんでくる。青年期に差し掛かっていた僕は、夫婦が互いに尊重・尊敬合い、助け合って生きていくという大切なことを今宮さんご夫妻をみながら学んでいたのだろう。
 今宮さんは富良野近郊の山部村(現・富良野市山部)の村長を務める平瀬家の4男1女の次男として生まれ、やがて一家は小樽へ移る。6歳の時、「是非に」と請われて、親戚の家の養子になり、旭川中(現旭川東高)を卒業して、北大予科に入った。その予科生の下宿時代に、北星の女学生・俊子さんと知り合うことになる。戦後の1947年(昭和22年)9月、北大理学部を卒業。山下生化学研究室で、研究生活を続けながら、理学部副手→助手と進むうち、愛を育んできた俊子さんとの結婚を決意した。しかし、教員をしていた養父が猛反対した。俊子さんが5歳の時、7つ上の兄(後に中国で戦死)と遊んでいて、ガラスの破片が突き刺さったため、左目が義眼になっていた。養父はそれにこだわった。が、それで怯むような今宮さんではなかった。
 「俺が俊子を守らないでどうする。絶対に嫁にする」
頑固者・今宮さんの面目躍如だった。1950年(昭和25年)4月29日、結婚式にこぎつけた。ただ結婚まで時間がかかった事情は、他人に明かすことではない。2人だけの秘め事とした。葬儀に際し、僕のしつこい取材に対して、ようやく教えてくれたエピソードだ。
 慈しみ合いながら金婚式を経たご夫妻の生活だが、後半生は病との壮絶な戦いだった。今宮さんは50代になってバージャー病(突発性脱疸)で片脚を失い、65歳の時に脳梗塞に襲われた。強烈な克己心で懸命のリハビリに取り組んだが、今度は俊子夫人の方も子宮がんと、それに続く動脈瘤による開頭手術を乗り越える試練が待っていた。それでも二人の絆が揺らぐことはなく、手を取り合い、歩み続けた。
 「私は明男さんのお陰で、素晴らしい人生を送ることが出来ました。あんないい人はいません。私も早く明男さんの元へ行きたいのです」
 僕は、学生時代もそれ以後も、今宮さんと人生について語り合った事はない。でも僕の心の中では、いつも言葉を交わしてきたし、これからも語り合っていくことだろう。今宮さんは永遠に生きている。2001年(平成13年)7月21日、中島パークホテルで催された北大野球部創部100周年行事で、僕は記念講演をさせてもらったが、演題は「ナイスガイ・グッドハート」。今宮さんをイメージして考えたものであることは言うまでもない。わが野球部に連なる諸君、いつまでもナイスガイ・グッドハートでいようぜ!━━━

10年前には、今宮さんも車椅子とはいえ元気いっぱいだった。あれから月日が流れ、平成23年7月2日午後6時、、札幌サンプラザで110周年が行われた。やや遅れて会場に到着、指定の長老組のテーブルに付いて驚いた。ひょいと隣を見ると、なんと今宮ご夫妻がいるではないか。夢か幻か?――。俊子さんは確かに本人であったが、隣にいるのは長男の廉君(51年卒)だった。確か60歳近くになるのだが、今宮さんと見間違えるほど瓜二つになっていた。特徴だった真っ白の頭も全く同じだった。
 最後の方で、予定外だが、特別に壇上に立たせてもらった。「いやあ、とにかく驚きました。甚だ失礼な話ですが、今宮夫人は、とっくにお亡くなりになったとばかり勝手に思い込んでいたのですが、元気なお姿を見て、こんなうれしい110周年はありません。しかも、“アンコウさんの学生時代、お母さんが、よく旭川から出ていらして、円山公園で、一緒に応援したのを思い出しますよ”と思い出を語ってくれました。これを泣かずにおれますか」――マザコンの僕にとっては、亡き母を思い出させてくれ、これ以上ない最高の110周年行事、東京からわざわ出て行って甲斐があった
 俊子夫人は、80歳前後と思うが、現在は札幌・発寒で、同じ敷地内別棟に、二人の息子さん家族も住まわれているそうだから、安定した未亡人生活を送っておられる。でも「いつも明男さんが早く迎えに来てくれないかと、首を長くして待っているのですが、なかなか現れないんですよ」と真剣な顔で話されていた。仲の良い夫婦とは、こういうものなのだろう。なにかすがすがしい気持ちにさせられた。
 翌3日は、朝7時に、柴田君(昭和55年卒)が、ホテル前まで迎えに来てくれ小樽商大グラウンドまで連れて行ってくれた。9時からのOB軟式の部で、お情けで1番を打たせてもらったが、3球三振。捕逸で1塁まで全力疾走(自分ではそのつもりだが、実際は早足程度なのだろう)してセーフ。黙ってじっとしておればいいのに、若き時代に戻った気になり、初球に2盗を敢行。10メートルもいかないところで、右足脹脛に激痛が走りダウン。75歳の恥をかくために、小樽までいったようなものだった。帰路は加藤君(平成3年卒)に送られたが歩くのがやっと。一晩中ホテルの女性に足を冷やしてもらい、帰途空路は車椅子に乗せられての帰京となってしまった。皆さんにご迷惑をおかけしてしまったが、なんと楽しい110周年行事であったことか。もう来年からは野球を出来ないかもしれない。だが北大野球部で過ごせたことが、僕の人生を豊かなものにしてくれた。
2012年の年賀状には、「陽はまた昇る。われら闘志は健在なり! 大震災・原発事故乗り越えて新生日本の船出だ!」そして「76歳へ。後期ではなく、光輝高齢者を目指します」と書いた。この場を借りて、改めて全員にお礼を言いたい。