シュンシュンシュン
雪道を行く白いバンが僕の視界右に🚐スッと入ってきた。
“どーしましたァ?”
そー言われ窓を開けたバンに近づき、ぼくは🥵電車🚃とトラック🚚の衝突で歩いてる旨
伝えると、その20代後半位の兄さんは、すぐ事情を呑み込み温かい!バンの中にpickupしてくれた。いうまでもなく話題は1つだし、相槌と“へえぇ!"で事足りる世界。
ぼくが、Johnson Town に住んでいると告げると、お兄さんは、ちょうどその先の空軍基地近辺に所用のようだった。超〜Lucky❗️ で、5、6キロ R16内回りを走行していくと、左側に
見たような大きな白い屋敷が見えてきた。本来の🧱総煉瓦の焦げ茶色が雪に染まっていたんだ。
このお屋敷は、渋谷とか世田谷の設定で度々CMやサスペンスTVドラマに出てくる。まさに1920年代の光と影❗️京都旧鶴巻邸と前世紀初頭の🇩🇪ドイツ焼成煉瓦で🗽米国からの招聘技師が建てたという巨億の富を投じた当館とは、あの時代の東西の代表建築物なのだ。
当館は、建築直後の関東大震災でもビクともしなかったし、その震災を踏まえた徹底的な耐震化建築が旧鶴巻邸だ。
1970年代頃は、年に2度華やかに🎊パーティーが催され、さながら鹿鳴館の様相を呈した。
いつだったかお呼ばれした時には、上品なお母様がシンプルでおいしい🍵お茶を点ててくださったこともある旧知の家なのだが、その大層なお茶の間、2百W電球💡に変えてやっと明るくなるほど高天井だった宮殿そのものの応接室のある洋館は、21Cには寄贈文化財になり住まわれてないので訪ねることもなくなってしまった。
かつ、開業する気になったら必ず連絡せよ、ちょうどその時わが社で建つビルが有れば🏙優先的に受け入れるから!と当主に言われたが、あいにく関西での医院開業となり約束は果たせないままになった。
1世紀前、この史跡の前の道にはシャンシャンシャンシャンと駆け抜ける鉄道馬車が敷設されていて横浜港までの絹の道でもあったのです。
というのも、この館は絹の家とも言われ、近隣に広大なシルク工場を🏭幾つも持ち、1930年代には国内では言うに及ばず生糸生産高東洋一であった。そのため、ナイロンで攻勢をかけてきた🇺🇸米国から徹底してマークされ、完膚なきまで空爆を受けた結果、館の500m西に直径2m近い煙突が残るのみで跡形もなくなった。
ために、2番手の冨岡が世界遺産になった、というからくりだった。
しかもあんな目立つ巨大な洋館が爆撃の対象にならなかったのは、GHQ下の占領後接収して統治館として使う意図があったからで、そこまで情報があることこそが、まさに軍事力の差だったと今更ながら‘情報(インテリジェンス)’の最重要性に気づかされた。
なお廃墟となった広大な🏭工場跡地は、戦後50区画ほどにして遺構の煙突付きのも含めて売りになった。駅10分🚉内という利便性もあり大人気につき、場所も選べない籤引きということになった。
後にYMOの細野さんが住んでレコーディングまでした隣町側にいた私の父親も話を聞きつけエントリーした。
今、ITでリッチな20代たくさん聞くけど👂、まさに当時は戦後上野でボロ儲けをした父のようなノリの20代の青年🧑🧑🧑がけっこういたようで、蓋を開ければ同世代20代で家庭を持ちかつ会社も始めたという(それこそ今の少子化担当大臣が腰を抜かして喜びそうな)夢いっぱいの街が突然出現してしまったわけなのです。
さながら‘昭和のオープンセット’⁉️
かつ半分は、米国人向けに広々芝生の🍔Americanhouseが建ち並び、強い💰ドルを背景に💵いくらでもお金を落としていったから、何をやっても上手くいき、同世代のウチラ子供達もその成功の流れなんだか気付けば、親たちとは全然違って半径3軒以内だけでも医歯薬系進学が5人もいて、その内2人は数少ない国立のノーベル賞大学に入ってもっと確率稀少なノーベル賞高校にゃ3人も行ったんだから教育高さのレベルというよりもむしろ、昭和レトロ華美絢爛豪華の勢い恐るべし❗️なのか❓もしれない。。。さて
『この辺でいいです』
と告げると、親切なバンのお兄さんは、雪の中❄️慎重にゆっくりと速度を落として止り、僕は丁重にお礼を言うと再び降る雪の上に降り立った。
・・のだけれどはて、何度も吹っ飛んだせいで傘が、役に立ってないことに今頃気がついた。ムリもない。拡げて🏖さしてるもののヘナヘナでおおよそ☔️傘の体(てい)をなしてない。しかたなく一歩二歩歩き始める・と ・・するとそこがまた、
もっと見たような建物だった。
・・白い天頂に向かって尖塔が雪の白で❄️霞んでいたけど、まさしくそれは✝️クロス、ビルボーリズ設計の神の家だった。 こんな真正面に間近に来たのは、ホントに13年振りではなかったろうか⁉️ ぼくは🥵2才のとき、ここの幼稚園に入ったからだし、そもそもここを建てたのは先のお屋敷のお母様の先々代当主なのだ。
なんでまた僕は、よりにもよって今日、この日この場にいるんだろう❓ ・・ぼくは、雪の白さと時間という白色矮星(はくしょくわいせい)の中を歩いていた。・・・
・・・夕方、忘れていた痛みが、再び背骨を走った。
ぼくは🥵鉄道会社に連絡を入れて外科🏥病院へ行った。診断は、全治2週間の打撲だった。
翌日、トラック会社の代理だといって鉄道会社の社員のひとが菓子折り(文明堂のカステラ)を持って見舞いに訪れた。
ところで確かに背中の痛みは2~3週間ほどで消退はしたけど。
3ヶ月後再び、鉄道会社の人がやはり代理として我が家にやって来て、その後具合は如何か⁇と聞いてきた。・・もしよろしければ、治療費+それと同額の見舞金で‘手を打ちたい’ つまりは、終了のサインを捺印して欲しい旨言ってきたのだ。
正直10年待ってくれ、って言いたかった。しかし恐らくは、3ヶ月でもなんの意味もないだろう、と僕はわかっていた。なので、
いいですよ
と言って僕は自室に戻った。
なにしろ、大方の事故責任者であろうトラック🚚の代理人としての疲労困憊(こんぱい)は、手に取るようにわかったし、父親も困ったようだ。たぶん、僕が席を外し際、いいですと言うのを聞いて、父親は捺印したんだと思う。
ーー実際、僕の背骨の真ん中辺は、🌠30年後のある寒い夜🥶再びあの痛みが走った! あの痛みとこの痛みが同一かは ”❓“ だけど今もたまに痛むことがある。だからか
満員電車には絶対乗らない。背中を押されるよりは、ロマンスカーやグリーンカーを躊躇なく選ぶ。でなきゃ高速をひた走る。
ぼくは、ゆったりした💺シートの車窓でたまに思い出すことがある。あのOL👩💼さん、多分あの日後になって肩関節か膝関節(しつかんせつ)辺りが痛んだんじゃないかと思うけど、うまく対処してもらえたのだろうか❓❓
ところで、この事故について。2つの奇跡についての新聞の言及はなかった。
先頭車両についてのみ🚃、“あわやガスタンク”と記されていた。
後続の2両目だって、僕も“あわや鉄塔激突!” だった。
・・鉄塔・ガスタンク2つも同時“あわや寸前❗️” だと奇跡の乱発であり、ですがこれこそ光の盾の証というか直感で2両目に乗ることで、大難を小難に変えた初事象でした。
その後、この肩代わりして救済に尽力した太っ腹な鉄道会社は日本一の球団を持つに至り、僕やOLさんやあの高校総体か🪂パラシュート部隊のオバチャマが雪中行軍した鉄路には今、“小江戸号”が何事も無かったかのように軽やかに走り抜けていく。
お・わ・り
(注:長編“浅草ニュートリノ“より西武線雪中大脱線これにて一件軟着陸🤣難ちゃって)