佐藤武久のブログ 「日本・モンゴル往来日記」 -69ページ目

モンゴルで親父の夢を見た(3) 中越大震災

イメージ 1
イメージ 2
挿絵 S.Sumber 「夕焼けの中をかける馬」

2010年2月21日(日)記 ホームページより転載

「モンゴルで親父の夢を見た(3)」
---亡き父に捧げるバラード---


--------------------------------------------------------------------------------
親父が亡くなった年2004年の晩秋10月23日、中越地震が私の郷里の近い所を震源として襲いました。
丁度その日は、花火大会がある日で、早い夕ご飯を済ませ、薪ストーブの火を弱めて、出掛ける準備をしている矢先でした。
突然激しい揺れが襲い、停電し、まだ火の燃えているストーブは45度に傾き、外れた煙突の隙間から黒煙がもうもうと立ち、これは一体なん何だと、まるで映画の一シーンでも見ている気分でした。
ストーブをこのまま傾けて居たら、床に火が燃え移り火災になる心配があると判断し、私は左の肩をストーブの側面に当てて立て直しました。
ノルウェー製の鋳物の製品で総重量は200kgはあるものです。
平常時では、とても動かせる物ではないはずの物ですが、話に聞く火事場の馬鹿力と言うやつでそれができたのです。
さいわい、それによって一難は去ったので、暗闇の中てロウソクを点けて、炬燵に入ったままじっとしていました。
炬燵は電気ではなく豆炭を利用していたので、足元だけは温かでしたが、ひっきりなしに強い地震が襲い、160年位昔に建てたと思われる古い欅の太い柱も不気味な音をたてて軋みました。
生まれて初めての恐怖感に襲われました。
翌朝、夜が明けてからお墓を見に行ったら石塔はことごとく倒れ、目も当てられない有り様でした。
余震が落ち着いてから建て直そうと思ってそのままにして置きましたが、余震はいっこうにおさまらず、とうとうお盆を迎えることになりました。
その時は、親類の人たちの応援で三人がかりで墓石を建て直しました。
お盆を過ぎてしばらくしてた大きな余震があり、お墓はまた元の黙阿弥になりました。
そしてそのまま、19年ぶりの豪雪に埋もれたまま一冬を越しました。
翌年もお盆の直前に建て直し、その後また地震があって倒れました。
今は倒れたままになっています。
他人は何と親不孝な奴だと言うかかもしれません。
親父の三回忌を迎えると言うのに墓石が地震で倒れたままになっていることに対して、私は多少の後ろめたさを感じていました。
ところがある日、菩提寺である安住寺の広報誌を見ていて次のような詩を見つけました。



千の風になって        新井 満

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
千の風に 千の風になって
あの大きな空を ふきわたっています


--------------------------------------------------------------------------------

親父は今モンゴルの草原を風になって飛んでいるのかもしれません。



挿絵 S.Sumber 「夕焼けの中をかける馬」

(おわり)

南鯖石小学校の閉校

イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
2011年12月27日(火)記

広報かしわざき No.1058 12月5日号

わが母校南鯖石小学校は89年の歴史を終えてこの秋閉校となりました。
写真は昭和24年(1949)の小学一年生の時の記念写真です。

池島信平のこと-11 母カタ子の先祖の墓

2009年5月5日記

池島信平のこと-11 母カタ子の先祖の墓

「池島信平対談集 文学よもやま話 上」の野上弥生子との対談で、母カタについてこんな話をしています。

(以下引用)
池島 いや、お元気でなによりです。わたしの母も八十三ですが、元気でしてね。いまだ頭が上がりません。この間も軽井沢の寮にいたのですが、「お盆で墓参りするから、連れていけ」・・・・・・。そこで、車で柏崎までいったんです。親類縁者、みな集めましてね、お墓の前にござを敷いて、「先祖は全員酒飲みばかりだったから、信平、お墓にたっぷりお酒をかけておやり」。こう申すんです。そして、その後は冷や酒の宴会で、まあ、その元気なことといったら・・・・・・(笑)。

(引用終わり)

その墓というのはこの写真のもので中央の墓石には嘉永二年 福相勇貴信士霊位と刻まれている。また左の小さな墓石には明治三十五年 金子常三郎建之 屋敷先祖大倉与左エ門と読み取れる。
カラー写真の中央がカタ子、その後ろが池島信平、右手の青年が写真提供者の金子享司氏、現在78歳である。左は昔、佐藤酒造店だった「酒屋」と言う屋号の家の佐藤忠雄氏の母堂フミで現在96歳でご健在である。

イメージ 1


イメージ 2

池島信平のこと-3 番頭池島信之助

イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 4
2009年3月12日記

池島信平のこと-3 番頭池島信之助

この写真は昭和36年頃に撮影されたもので、右が池島信平さんです。この頃は文芸春秋の編集長になっていた頃と思います。佐渡か柏崎に講演に来た折に立ち寄ったのではないかとこの写真を持っていた酒屋の忠男さんは言いました。たぶん、奥さんが撮影したのでしょう。
蛇足ですが、この写真の右上のかやぶき屋根の家が吾の母シゲコの実家です。

左のおじいさんは佐藤仁作さんで、戦前は佐藤酒造店を経営していました。前にも書いたように「稲荷山」という銘の酒です。
二枚目の写真が仁作さんが若い頃の写真で、半纏に佐藤酒造と稲荷山の文字が染め抜かれています。
この酒造店に番頭として働いていたのが池島信平の父、池島信之助でこの近くの当時上條村久米の人だそうです。

四枚目の写真は、番頭としての池島信之助が付けいていたいわゆる大福帳で左下に池島と書かれています。日付は明治三十六年と読み取れますので日露戦争の二年前に当たります。
酒屋の右隣は当時地主だった六衛門どんの屋敷で、そこに奉公に入っていたカタ子という名のこの村の娘を信之助が見初めて結婚し、東京に出て[北星舎]という牛乳屋を開業します。
そんな関係で、信平はこの片田舎の父母の故郷を訪ねたのだそうです。これが初めての訪問ではなくもっと若いときにも訪ねていて、信平さんが自ら写したという親戚に当たる村の古老の写真が残っているそうです。

酒屋は終戦の頃まで酒をを作っていたそうです。
密造が発覚し税務署に過重な罰金を課せられるという事件がありました。吾の曽祖父佐藤佐太郎も加担していて同様に罰金を課せられ、罰金を払うため先祖伝来の田畑を売り払い、息子の源二郎が東京に出ることになりますが、これは別の機会に書くことにします。

さらに、最後の三年は雑菌が入って毎年酸っぱい酒ができ失敗が続き、廃業を決意し、隣の岡田にあった酒屋に設備一式を売り渡したということです。
そのため、酒造りに関する機材は一切残っておらず、わずかに帳簿や樽に押す稲荷山という焼印が残っている程度だそうです。
仁作爺さんは米寿の祝をしてもらって九十歳で亡くなられたそうですが、私はその頃は仙台にいたので確かな記憶はありません。

参考資料
自伝的断章集成(司馬遼太郎):http://blogs.yahoo.co.jp/nkydr632/41920363.html

池島信平のこと-7 池島カタ子の寄附

イメージ 1
イメージ 2
2009年3月28日(土)記

池島信平のこと-7 池島カタ子の寄附

大正十五年十一月 鯖石神社再築記念誌(佐藤忠雄氏提供)に大正七年の天変地異の模様が次のように記述されています。

「思い起こせば大正七年五月二十五、六日、平穏な山あいの部落に何の前触れもなく襲い来たった地滑りは、身も心も宙に飛び、大地は波濤のようにせり上がり、村人達の心の只一つの拠り所である神社(みやしろ)は見るも無残に倒壊し、一千年を経た周囲二丈余りの御神木も真っ二つに炸裂し、正に地獄絵図と化し、見るに忍びぬ惨状となったのでありました。

落胆する振り起こし振り立たし、皆心を一にし、昔からの鎮守さんを中心とした強い郷土愛と氏神への信仰は、各人共多額の寄附と悔いのない人海戦術をも駆使、また郷土出身の方々を始め多くの他村からの御寄附と応援は、地元民の心々を涙するほどゆさぶり、力量を倍化させ遂に大正十五年九月、現在のこの立派な御社殿を造営することが出来ました。(鯖石神社 宮司 宮澤益二郎)」

そして、寄付者芳名の最初のページに

一金 弐拾円也 東京市本郷春木町 池島カタ子

と記されている。

すでに東京に出て「北星舎」という牛乳屋を営み、村で随一の成功者であったとしても、大正十二年の九月一日に関東大震災により住居を消失しているから、この弐拾円也という金額は決して楽なものだったとは思えない。

「本郷春木町」の中で信平(震災当時14歳)は次のように書いている。

「震災では私の家は一日の午後四時頃焼けた。午後の配達に出る前だったので、元気の良い若い衆が二十人余りも居り、牛乳車で荷物を東大構内へ運んだ。壮観であった。最後に、
『旦那、畳が残りましたが、こいつも運びますか』
というのに、父が、
『もういいだろう、そんなに運ぶとあとで保険がとれなくなる』
といっていたのを覚えている。火災保険をマルマル貰えると思っていたのだ。いい時代であった。」

関連資料
大正七年の天変地異:http://blogs.yahoo.co.jp/jkchp386/48591935.html 

紫陽花 佐橋の庄(サバシノショウ)

2014/07/12

紫陽花(あじさい) 佐橋の庄(サハシノショウ)

この地方で発見された「佐橋の庄(サハシノショウ)」と言う銘の紫陽花があると聞いているがこれがそれかどうかはおぼつかない。
「佐橋の庄」とはここの現在の地名「鯖石(サバイシ)」の語源で越後北条氏の所領だったとか。

イメージ 1

イメージ 2

7月21日撮影
イメージ 3

農道を行く

2014/10/07記

農道を行く 2014/10/07

台風が去って秋晴れ、峠の農道を行く

イメージ 1

オオケタデ(大毛蓼)
イメージ 2

合歓の木
イメージ 3

イメージ 4

太平記


2014/10/09記

吉川英治著「私本太平記」の関連資料として


歴史小説 太平記(上)




青空文庫で全巻閲覧可能

「私本太平記」に見る毛利氏と佐橋郡

2014/10/7日記

吉川英治著「私本太平記」に見る毛利氏と佐橋郡

(以下引用)
毛利時親は、大江氏の族である。だから都や鎌倉では。
大江時親
で知られている。
生地は越後だ。同国佐橋郡ノ南条の守護、毛利経光の四男である。少壮から変り者の方だったらしい。
 しかし、六波羅の評定衆に加えられ、その才はほどなく、鎌倉の執権代長崎高資の一族泰綱に
みとめられた。そして泰綱のむすめを妻に娶った。まぎれもない彼は北条眷属の一人であった。
ところが。
諸般の事情はよく分からないが、六波羅の職はまもなく辞めてしまった。・・・・
(引用終わり)


イメージ 1


柏崎市の歴史年表(鎌倉時代)

世界のテレビ事情 第3回 モンゴル

イメージ 1


2014/10/06記

 
TV stationの2003年10号(5/3-5/16)に掲載された記事