佐藤武久のブログ 「日本・モンゴル往来日記」 -68ページ目

エアーポテト(宇宙いも)

2014/11/06記

エアーポテト(宇宙いも)

一昨日(4日)の風雨で自然落下したエアーポテト(宇宙いも)

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「ミツバチとともに 角田公次(農家になろう)」のカスタマーレビュー

2014/11/01記

「ミツバチとともに 角田公次(農家になろう)」のカスタマーレビュー

農文協の編集局から承認を得て
「ミツバチとともに 角田公次(農家になろう)」のカスタマーレビューが公開されました。

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「ミツバチとともに 養蜂家 角田公次」(農文協 編)のカスタマーレビュー 佐藤武久

「ミツバチとともに 養蜂家 角田公次(農家になろう」(農文協 編)という本が出版されたことを初めて知ったのは、昨年(2013年)秋、赤城南麓の角田養蜂場を訪ねた時、角田公次さんから直接教えられた。
大西暢夫(おおにし のぶお)さんの写真を中心に解説文が付いていて、大人だけでなく低学年の児童にも読めるように漢字にルビがふられた写真集とも絵本とも呼べるような美しい装丁の本だった。
角田公次(つのだ ともじ)さんにはやはり農文協より出版された「ミツバチ 飼育・生産の実際と蜜源植物(新特産シリーズ)」という著書があることは予め知っていた。
この本は1997年の発行以来13刷りを重ねる古典的名著になっていて、私も図書館で何回か目を通していたので角田公次さんのお名前は記憶に残っていた。
けれども、うかつなことに、この数十年の間、何十回ともなく通っている赤城南面道路の交差点近くに立っている「角田養蜂場」のご主人その人であることに思いが至らなかった。

「角田養蜂場」の看板が強く目に印象づけられた(写真)のは、昨年の夏、モンゴルのウランバートルで開かれた養蜂セミナーで干場英弘(元玉川大学教授)先生の講演(写真)を聴いて強い関心を持つようになった後のことである。

初めて、アポもなしに角田養蜂場を突然訪問した時、奥さんの積子(せきこ)さんは自宅裏の養蜂場でスズメバチの撃退中であった。
「危ないから近寄らないで下さい」と言われて柵の外から蜂場の写真を撮った。(写真)
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やがて、仕事の手を休められて、事務所に案内され、私のにわかかじりのミツバチについての取り留めのない話題にお付き合いいただいた。
しばらくして、外出中だった角田公次さんも帰られて、本書の26ページの写真と同じ位置に座られた。
角田公次さんは1928年のお生まれなのでその時85歳であったが、遠い昔の20歳の時のミツバチとの出会いについて熱い口調で話された。
その話は次のようなとても印象深いものだった。
この本の19ページを引用させて頂くと、

「農民福音学校の先生が村に来て、ヨーロッパの農業の話をしてくれたんだ。聖書にある『乳と蜜の流れる郷』。広い牧野に牧草をつくって、牛を飼って乳をしぼり、そこに咲く花でミツバチを飼って蜜をしぼり、豊かな生活をしているという話。それを聞いて、おれも蜂を飼いたい!と思ったんだ。それから『蜂が買いたい、蜂が買いたい』と夢中になって思ったけど、貧乏で・・・・・・。十数年して、母ちゃんと結婚してから、はじめてミツバチを一箱買ったんだ。」(引用終わり)

昭和35年、32歳の時、初めて念願かなってミツバチ一箱を買った時の感激は、ミツバチに刺された痛みも嬉しく思うほどに大きいものだったという。

その後、自宅の周りに蜜源となる花木を植えたり、ナタネの畑を増やしたりして、最盛期には150群の巣箱を置いていたという。
そして50年にわたり、夫婦ふたりで養蜂業を営んできた。
その間には、天敵であるスズメバチの襲撃、台風による被害、冬の寒さや雪による被害など様々な困難に出会うことになるが、最大のものは熊の襲撃だと言う。
熊が蜂場に現れたと言う情報を掴んだら、夜であっても早朝であっても直ちに現場に駆けつけて巣箱を移動しなければならないという。

最近の危機的な事件は、2009年のミツバチの大量死で、「これで養蜂業はおしまいか」と思われたそうだ。
ミツバチ大量死の問題は、蜂群崩壊症候群(ほうぐんほうかいしょうこうぐん、Colony Collapse DisorderCCD)と呼ばれ、ミツバチが原因不明に大量に失踪する現象で、現在世界的な重大問題となっている。
ミツバチは蜂蜜を作るだけでなく、果物や野菜などの花粉交配(ポリネーション)を行うという大切な役割を担っている。
もし、ミツバチがいなくなれば人類の生存は危ういと言われている。
このような危機的状況の下で、人と自然をつないでくれるミツバチへの関心が急速に高まっている。
今回時宜を得て出版された本書は、2013年度の(株)山田養蜂場の「みつばち文庫」の寄贈図書のひとつに選定され、私の母校も含め全国の小学校3,000校に寄贈された。
(EOF)

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熱気球搭乗

2014/10/26記

熱気球搭乗

コミュニティ祭りで中学校のグラウンドから揚がった熱気球に搭乗して見た風景

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オオシマザクラの挿し木

2014/10/22記

オオシマザクラの挿し木
 
春先にオオシマザクラの若い枝を切って10本程挿し木にしたが、この一株だけが根を張って成長している。

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御所柿の初物

2014/10/22記

御所柿(ごしょがき)の初物

渋の抜けが遅い品種なので試しに三個だけ取ってみた。甘い!

「秋風や 皆千年の 物ばかり」 子規

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関連記事:

沢蟹(さわがに)侵入

2014/10/22記

生き物の気配 沢蟹(さわがに)の侵入

風呂場に沢蟹が一匹這い回っていた。
猫がくわえこんできたか、外の排水パイプに潜り込んで排水口から侵入したものか?

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柿の葉

2014/10/19記

朝夕冷え込んで柿の実が色づいてきたが、この柿の木は渋い実をすこし付けるだけだ。
昔の地主が柿の葉が美しいので植えた木だと最近知った。
撮影は2013年10月29日

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薬師如来 薬師堂 由来記

薬師如来 薬師堂 由来記

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2012年4月11(水)日記

薬師如来 薬師堂 由来記

之は何時の頃より祭り置きしや 小清水の東の山峯の岩穴の中に木像あり 即ち峯の薬師と申し伝えけるが建保二年(1214)二月打続く大風雨にて十一日の夕方に薬師の峯山崩れして小清水川を留めてその中は池の如く水満々として気毒千万の事に相成り候
人々寄集り堀取り致し漸く十六日に切り払い申し候に付き薬師如来を尋ねしに山崩れの小高き処に立ち給いてありける故 有難く存じ人々その処を掘り平均し杭を立て四方をふさぎ其の中に薬師如来の木像を入れ置き候

一、応永二十一年(1414) 其の年八月三右衞門次男三次郎と申す者分家に相成り渡世相励み次第に繁盛致しける

一、永禄七申年(1564)三次郎家内不残病死致し候えば本家三右衞門次男兵右衞門と申す者御座候に付き三次郎家跡相続致しける故兵右衞門は三度目の分家に相成り屋敷はもとより薬師地の傍に住居有りける故朝夕如来を信仰仕り候に付きその後慶長三戌年(1598)御上様御検地の砌り悉く御?し之有古跡は紛れ無候に付き薬師境内並びに御供料と申して田地御除被下置候故先々通り有難く拝作仕候事

薬師堂守 宮澤播磨太夫廣信謹拝
一、慶長八卯年(1633)兵右衞門信心にて村中の他力を頼み縦八尺横七尺の堂を建立仕候 依而堂地掃除御供料薬師免と申して田地御除置被下支配人兵右衞門と相定候 但し先年より兵右衞門信仰に付き斯如くに相成り候事にて兵右衞門倅多郎兵衞相続致し多郎兵衞の倅六兵衞 六兵衞 の倅又六兵衞 又六兵衞の倅源太夫男子なきため田島村平野治左衞門末男婿に迎え兵右衞門と申し相続仕候 之即ち金子三左衞門の分家なり

建保二年(1214)
応永二十一年(1414) 
永禄七申年(1564)
慶長三戌年(1598)
慶長八卯年(1633)

「モンゴルで親父の夢を見た(1)」

「モンゴルで親父の夢を見た(1)」

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2010年2月21日(日)記 ホームページより転載

「モンゴルで親父の夢を見た(1)」
---亡き父に捧げるバラード---

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元山さんは、モンゴル報告の第21回で「私の父に瓜二つのモンゴル人に出会ったこともある、日本では一度もないのに」と書いておられます。
私もこの記事に触発されて、モンゴルで親父にそっくりな人に会えるかも知れないと言う妄想がどんどん膨らんでいました。
それも30歳位の青年時代の父に会えるかも知れないと言う妄想です。
日本でこんなことを口にしたら「あんた、あたまちょっと変なんとちゃうか」とちょっと危ない人と思われるのが関の山でしょうが、モンゴルにいると何故か、このような妄想が現実味を帯びて押し寄せてくるのです。
元山さんの父君は長崎県佐世保市の海軍の軍人であった様に聞いておりました。
海のないいモンゴルで海軍の軍人だった父親そっくりの人が居たというのだから、あの馬好きという程度を越えて馬気違いと陰口を言われていた私の親父がいない筈がないと、私の妄想はどんどん膨らんでゆきました。
馬気違いと言われても仕方のない親父の行状は次ぎのような話で十分頷いていただけると思います。
終戦の時、父は30歳になっていたと思います。
その時、父は仙台にいましたが、予てから目を付けていた上官の愛馬を高額のお金を払って買い取り、貨物列車の一両に載せ、自分もその中で寝泊りし、新潟県刈羽郡安田町(当時の地名)の田舎の駅に降り立ったと言うのです。
父の親父、つまり私の祖父は、これまた親馬鹿を絵に描いたような人だったらしく、戦争で死ぬかも知れないと思っていた息子が(現に父の部隊は、終戦直前にアラスカのキッツ島に派遣されたのだそうですが、父は乗馬教官だったためか除外されたようです。)生きて帰って来るのだからと、先祖伝来の田畑を売り、馬を買う高額の代金を工面したと言うことです。
今なら、どら息子に分不相応なポルシェか何かでも買ってやったと言うところでしょうか?
さらに、祖父の親馬鹿さ加減は、仙台の息子がx月x日に安田駅に貨車に馬を積んで到着するという葉書が届いているのに、その二日前から駅前に一軒しかない安田館と言う旅館に泊まりこんで、一汽車通る度に出迎えていたと言う事です。
もしかして、予定が早まって、駅に着いたときに、誰も迎えが居なかったら寂しかろうという思いからだったようです。
親父が亡くなったとき、村を出て遠く離れている私の見知らぬ人から一万円の香典に添えて次ぎのような文面の書留を受け取りました。

「兵隊より帰ってきて、駅から馬で小清水(集落の呼び名)を駆け回り、わたし達子供らは、ただただ唖然として驚き、そのカッコ良さに見とれたものでした」

(つづく)

「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(5)」 ワイナプレン(捕囚)

「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(5)」 ワイナプレン(捕囚)

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2009年7月31日(木)記

「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(5)」 ワイナプレン(捕囚)

ゴルバチョフ氏がライサ夫人を伴って来日した1995年(平成7年)の2月3日、東京の新高輪ホテルで「ゴルビー・その人と政治哲学 冷戦終結後の平和の再構築」と題する講演会が開催された。
政界・財界の大物が集まるパーティに叔父のような中小企業の一経営者が招待されたのは、シベリア抑留者でブラックリストに載っていたためらしい。
招待されたとはいえ会費も7万円とかで高かったそうである。
会の後半に講演を終えたゴルバチョフ氏が、参加者のテーブルを挨拶して回り始めたという。
ところが、末席に近い叔父の席にはまだまだ時間が掛かりそうである。
終宴の時間迫ってきている。
折角、高い会費を払ってきているのに、この程度の料理だけ食べて引き下がっては元が取れないと中小企業経営者の意地汚い判断が働いたようである。
思わず立ち上がってゴルバチョフ氏の方に歩み寄ろうとしたら、待機していた警備員に取り囲まれてしまった。
そのとき、シベリア抑留時代に覚えていたロシア語の捕虜と言う言葉「ワイナプレン」を思わず叫んだ。
そのロシア語を耳にしたゴルバチョフ氏がつかつかと叔父の方に歩み寄り、日本式の腰を45度に曲げる深々としたお辞儀(不祥事を起こして企業の経営陣が記者会見の席でする最近頻繁に見るようになったあのお辞儀の作法で)をして、「申し訳なかった」と謝罪したと言う。
その後、同席していたライサ夫人を呼び寄せて撮った写真がこの小伝の冒頭に掲げた写真である。(写真1)

この話を聞くまでは、心臓の強い叔父がゴルバチョフ氏に「謝れ!」と迫ったのだと思っていた。
そのことを言うと叔父は「いくら俺でも、そんな失礼なことは言えないよ」と笑った。

写真を撮った後、ゴルバチョフ氏は名刺を出してそれにサインをして差し出したと言う。
ゴルバチョフ氏はサインをしないことで有名な人らしく、その名刺は叔父のもっとも大切なもののひとつとして額に入れられ、佐藤電設工業の重役室に飾られている。(写真2)