こんにちは、さとです。

 

今日は世界観ブログ6日目、今のところ毎日続けられていて一安心(時間は日付超えちゃってるけど…)。

 

三日坊主の私も六日坊主までは行けるということが分かりました笑

いや、ちゃんと五十日坊主までいくけどね!

 

そういえばとっても大事なエピソードを抜かしていたことに気付きました。

もう小学校編に入ってるけど、ここでちょっと時を戻して4歳位の時のことを書きます。

 

 

幼稚園で、たぶんバザーの準備をしていた時だったと思う。

母が幼稚園に来て何か忙しそうにしていたのだけど、その間私はヒマなので、同級生の男の子のお母さんが面倒を見てくれることになった。

みんなが帰った後の図書室で、そのお母さんがずっと絵本を読んでくれた。

私はその時ほど幸福を感じたことはないと言ってもいいくらい、その時間がすごく幸せだった!

「次はこれ読んで!」と興奮気味にたくさんリクエストをした。

そのたびに優しい笑顔を向けてくれ、私のためだけに本を読み聞かせてくれた。

幼稚園でも、家庭でも読み聞かせはしてもらえていたとは思うのだけど、なぜかこの時は読み聞かせでものすごい愛情をもらった感じがしたのだ。

 

おそらく、「甘える」ということを思い切りさせてもらえたから、そんなにも嬉しかったのではないかと思う。

 

今振り返ってみると、自分から「これをして!」と要求してそれを受け入れてもらう、という体験が極端に少なかったと思うし、そうしようという発想がまずなかったと思う。

むしろ、親や大人の要求に私が応える、というスタイルが板についていた。

よく子供が赤ちゃん返りしたり、自分でいつもやっていることなのにあえて大人にやってと言ったりということはよくある話だと思うのだが、それはそうしてもらえる確信があるから出来るのであって、私の家ではそれはなかなか出しづらかったのかもしれない。

 

 

私はそのお母さんの子供がうらやましくなった。

その子は家で思い切りこのお母さんに甘えて、こんな幸福をしこたま味わっているのだろうと思うと、言葉にならないやるせなさが募った。

 

私だって、いい家庭に生まれて不自由はないし、親にだって愛されているとは思うけど、やはりこの「甘える」ということへの縁遠さは否定できなかった。

全くそれを味わえなかったならむしろその方が幸せだったのかもしれない。

中途半端にこうしてたまに味わってしまうと、外食のおいしさを知ってしまったような、そんな感覚になる。

 

でもやっぱり、味わえて良かった。

こういう幸せがこの世にあるということを体験させてもらえたから、私の中に生みの親以外の親像がインストールされた。

これはきっといつか私が母親になった時に、大いに役に立ってくれると思う。

そして何より、ちょこちょここういった愛を外部の人からもらえたことで、足りない栄養が満たされて、インナーチャイルドは何とか無事成長できたのだと思う。

 

両親にはもちろんものすごく感謝しているし、私を育てる上でたくさん大変な思いもしてきてくれたと思うのだけど、やはりそれとはまた別の話である。

私はとてもラッキーな人間で、外でのつまみ食い的な栄養補給がかなり豊かだった。

どこに行っても色んな人が可愛がってくれたと思う。

まぁ、それによる弊害もその後いろいろあった訳なのだけど…

 

大人になるまでの間、かなりこの思い出に私は生かされた。

頻繁にこの時のことが思い出されて、不足した心のピースは埋まっていった。

そして、私は再びこの幸福を味わうことを渇望した。

それによってちょっと人生が思わぬ方向に行ったりしてしまうのだけど、それはまた後の回で…