昼の休憩


郵便局で郵便小為替を現金に変えた後、


バスの待合所に行きました。


天気は快晴、風はさわやかです。


ここのバス待合室はログハウスの広々とした講堂となっています。


おじさんが一人、ロビーの長いすに腰をかけ、うとうとしていました。



私も長いすにごろりと寝そべり、空を見ました。


ログハウスの天井は高く、その向こうに青い空がどこまでも果てしなく続いています。


知らないうちにうとうと夢の世界へ・・・。


天国ってこういうとこをいうのかなぁ~。


初夏の昼下がり、昼寝は心地よいです。



江戸時代まで日本人は、現在とは違う時間を使って生活していました。


現在採用されている時間は、一日を24時間に等分割し時間の長さは季節によらず一定な定時法です。


一方、江戸時代までの日本人が採用していたのは、日の出から日の入りまでの時間を6等分する不定時法でした。


どういうことかというと、季節によって時刻の長さが違う。


ちょうど夏と冬では1時間が80分になったり、40分になったりするということです。


夏至の頃は朝4時に日が昇り夕方8時に日が沈みます。


そこで朝4時から夕方8時までの16時間を6等分して計算、1刻が約2時間30分になります。


冬至の頃は朝6時に日が昇り夕方5時に日が沈みます。


そこで朝6時から夕方5時までの11時間を6等分して計算、1刻が約1時間50分になります。


夏と冬で1刻に40分ほどの違いがあります。



普通に考えれば、夏は1刻が長いのだから、1刻でする仕事は冬より多くなると考えがちです。


でもそれは現代人の考え方で、江戸時代の人はそう考えませんでした。


江戸時代、夏、冬かかわらず、どちらも同じ1刻であり、そこになんら差別を設けることなく、なんと1刻で行う仕事の量は変わらなかったそうです。


それなら夏は冬より多い40分の時間、なにをしていたかというと、


昼寝です。


夏は暑いので1時間50分働いたら40分昼寝。


また1時間50分働いたら40分昼寝。


冬は寒いので急いで働いて体をあっため、早く仕事を終わらせ家で布団にくるまってぐっすり寝る。


昔の人は休憩を含めて一日平均3刻程度しか働かなかったというので、なんと一日の労働時間が夏で7.5時間程度。冬なら5時間30分程度。


夏時間なら午前9時出社で午後4時30分帰宅。途中休憩3時間。


午前9時出社、午前10時昼寝。午前11時仕事再開、適当に昼食。


午後2時昼寝。午後3時再度仕事、午後4時、30分だらだらしてから帰宅。


冬時間なら午前10時出社で午後3時30分帰宅。途中休憩1時間。


午前10時出社、正午昼飯1時間ぶらぶら散歩。


午後1時仕事再開、午後3時、30分だらだらしてから帰宅。



まるで貴族のような世界です。



今からみれば、なんて能率の悪い仕事しているんだと思われるかもしれませんが、生物としてはすごく自然な時間のようです。


野生動物も実は不定時法を採用しているようですし。



夏の暑い時は休憩を多めにとってゆっくり作業をし、


冬の寒い時は急いで作業を行い家でゆっくり休む。


ダラーとする暑い日は思い切りダラーと仕事して、体が芯から冷える寒い日は急いで仕事をして体を温める。


クーラーや暖房がなくても快適に過ごすための知恵ですね。


エコの生活とはこういったことを言うのではないでしょうか?



今日は昼寝しながら、そんなことを考えてみました。

青色パトロールといって、子どもの登下校時、青色回転灯がついたミニパトカー(青パト)で地内を回るお役があります。


今日はたまたまそのお役になり、青パトで地内を回りました。


途中、山の中を通った時のことです。


山を見ると、鹿が林の間を走り回っているではないですか?


思わず、おおお!と驚きました。


でも、当地では何も珍しい風景でもないそうです。



先日、棚山の自然と生きものたちで、講師の小山さんからいろいろ野生動物に関する話を聞きました。


今、山里では鳥獣被害が深刻。


講師の住む四谷千枚田では、先週1週間で、なんと6頭ものイノシシが捕獲されたとのこと。


監視カメラで確認したところ、なんと50頭を超えるイノシシが、四谷千枚田を荒らしていることが分かりました。


イノシシは体格も大きく人を襲うこともあるかなり危険な生き物。


夜道で見つけても、なかなか追い払えないそうです。


そこで鉄砲でズドーンとやるわけですが、鉄砲で撃って調べてみると、イノシシの多くはイノブタ。


つまり純粋な野生種ではなく、イノシシと豚の交雑種とのこと。



もともと野性のイノシシは、繁殖力が弱く、年に1度、春先だけ3匹ほどのウリ坊(イノシシの子ども)を生みますが、たいてい梅雨から夏にかけての湿気と暑さで死んでしまい、1匹生き残ればいいところ。


それが、今から10年ほど前、養豚業が不振な時代があったそうで、当時、売れない豚を忌々しく思った飼い主が、養豚業を廃業するにあたり、飼っていた豚を全て山に放してしまったそうです。


その頃から、イノシシと豚の交雑が進み、年1回しか子を産まなかったイノシシが、なんと春と秋の年2回、しかも、生まれてくる子どもの数も、6匹から8匹と、豚並みになってしまったそうです。


そのため際限なく増えだし、今では野良仕事をしていた老夫婦がイノシシに追われる始末。



さらに、山では鹿が大繁殖、農作物の新芽を食べ、深刻な被害。


人より猿が多く、人間が育てた作物を根こそぎ食べてしまうそうです。



自然破壊や、野生動物の保護はどこ吹く風。


野性はバランスを失い、滅びる種は滅び、繁栄する種は、まるで人間のように繁栄しているとの話し。


少子高齢化に揺れる山里では、人間が絶滅危惧種となりつつあります。



歴史の授業でも、理科の授業でも人間の活動は、野生動物に深刻な被害を与えてきた、人間の手が入らない素の自然が最も生物多様性が豊富で美しい自然だと教えられてきました。


でも、実際山奥を歩くと、人間の手が入らない鬱蒼とした森は、生物多様性に乏しく、単調であまり美しくありません。


小山さんの話でも、“山奥で野生動物を見たことはないが、里ならいつでも野性動物が見える”と冗談を交えて話していました。


素の自然はあまりに厳しく、多くの生物は生きられません。


人間はその厳しい自然を改造し、自ら過ごしやすい世界に変えてきました。


それが野生動物にとっても過ごしやすい環境で、この異常繁殖を招いたようです。



本来自然が行う淘汰を人間が行わないと人と野生動物が共存できない。


保護一辺倒ではやっていけない厳しい現実を思い知らされます。



ちなみに、イノシシ料理は新城市の名物料理です。


新城市の矢部に専門のお店があります。


自然と人間との共生から始まったイノシシ猟を軌道に乗せるためには、どうしても、商業ベースの需要が必要です。


イノシシ肉と聞くと臭いと思いがちですが、あれは処理の方法によって全然違ってきます。


プロがうまく血抜きすれば、本当にやわらかくて癖のないおいしい肉になります。


ぜひみなさんも新城に立ち寄ったときは、イノシシ料理を試してみてください。


おいしいこと請け合いです。



三河猪家
http://r.tabelog.com/aichi/A2306/A230605/23009321/


山あり川あり、美しいと言われる日本の風景ですが、私はあまり美しいとは感じません。


それにはわけがあります。



大学時代、私は、アメリカやヨーロッパに旅行に出かけました。


アメリカの西海岸や南フランスなど風景が美しいといわれる場所にも行きました。


それらの場所に足を運んで感じたのは、意外にもなつかしさでした。


これらの土地、私が生まれ育った愛知県の太平洋岸の風景によく似ているのですね。


山あり川あり、そして緑おりなす風景。


風のにおいが似ている。


暖かい太陽の光と、適度に湿気を帯びた心地よい風。


故郷に帰ってきたような気分でした。



たぶんこれらの土地、私が生まれ育った土地と素の自然はすごく似ているのかもしれません。


しかし、美しい風景は人間が作るもの。


やはり違う。


この違いは、その土地で生きる人間がどれだけ土地の自然と調和しているかの差ではないかと感じました。



アメリカの西海岸や南フランスのような農薬をたくさん使って、雑草も生えないような果樹園や、トラクターでならされた人工的な耕地が自然と調和している?


すごく不思議に思われるかもしれません。


でも、正直、美しいと感じます。


それらの土地は、うざいヤブ蚊やブヨなどの害虫が少なく、人間に有用な作物だけが繁茂する。


ある意味、人間の胃袋を心地よく感じさせる風景だからかもしれません。



でもそれ以上に、これらの土地と私の生まれ育った土地の違いを際立たせるのは、


人間の作った構造物の違いです。



なんていうか、建物って、一軒一軒見れば、確かに趣向をこらしたものが芸術的で美しく見えますが、でも、風景で見たとき、一番美しいと感じるのは、シンプルな建物です。


日本の建物がけばけばしく醜く見えるのは、一軒、一軒、個人の趣向がこらされ、複雑で統一性がないからだと思います。


一方、ヨーロッパの家などは、どれも基本的に箱型の平屋建て、いたってシンプルで、趣向に乏しい。


時々、芸術家の建物とかいって自然から浮いてしまっているようなものがあるけど、それは例外。


不動産物件を探すとき、よく言われるのが、住むなら箱型のシンプルな家がいい。


人間は三角や円型などの家では落ち着いて暮らせないし、スペースを有効に生かすことができない。


つまり、家は箱型がベストなんですね。


シンプルがベストです。



次に日本の風景を醜くしているのは、家がでこぼこしている点ですかね。


昔の家は、土壁でいたってシンプル。


江戸時代の家なんかもすっきりしていて、ヨーロッパの家を連想させます。


でも、今の家では、縁側が飛び出たり、鬼瓦がでんと乗っていたり、戸口が出ていたり、部屋が出ていたり、なんかでこぼこしていて、変化に富んでいます。


ごみごみした汚らしさを感じます。


一方、外国の家は、壁があるだけで、すごく平面的。


横にしてもそのまま建ってしまいそう。



そして、日本の家がどうも色彩的に風景から浮いてしまうのは、壁がトタン材で覆われ、なんかスラム街のバラックのような目にちかちかする印象を与えるからだと思います。


鉄の板の上に塗ったペンキの色って、すごく不自然で、自然と調和しない。


家の見栄えが良くなる、家が長持ちするとの理由でトタン材を貼るのですが、でも果たして本当に家にいいのだろうか?


家は生き物のように呼吸するといいます。


なんか家の息の根を止めてしまっているように感じるのですが・・・。



トタンなど人工素材で家を覆うと、建ったときは、不自然な潔癖さがあります。


それが清潔で綺麗と感じるのですが、人工的すぎてまわりの風景から浮いてしまいます。


恐ろしいのが、火事の時、煙が家の中に充満したり、有毒ガスが抜けなかったり、人工素材に覆われた家は非常に危険です。


人工素材で家を覆うと、遠目には風景から浮いた産業廃棄物のように見えるだけでなく、家の寿命をちぢめ、しかも災害時大変危険です。


こんなこと言うと叱られそうですが、なんでみんな人工素材で家を覆いたがるのか?私には分かりません。



企業団地の効率性だけを考えたコンクリート打ちの箱型ビルディング。


どれも同じような建物で、どちらかの壁に大きく数字が書いてあり、何棟目か分かるようになっています。


あれとってもシンプルで美しいと感じます。自然の風景とも調和していますしね。


しかも、最も燃えにくく安全な家です。



そして、日本の街は、個人の好き勝手に建てた家が連なり、モザイク状で、とてもごみごみしていて汚い。


外国のようなシンプルで美しい町並みではない。



また、電柱やら電線やら、なにやらかにやら、いろいろなもので二重三重にとりまかれ汚い。



あげればきりがありませんが、これらの原因は、戦後の土地政策にあったと思います。


戦後、個人の所有権を強化して、個人が自由に土地を所有し、自由に好きな家を建てられるようにしたのは、完全な失策だったと思います。


アメリカの理想主義者が、個人の権利をうたい、理想に燃え日本で行った政策ですね。


その結果、日本の風景は醜くなり、統一性のない汚い村々、町々が全国にできあがりました。


それらの整備に多大な税金が必要であり、しかも、効率が悪い。


そのうえ、たとえ整備したとしても、素がでたらめだから、ごみごみしていて綺麗にならない。


汚い町は住みにくくもある。



家を好き勝手に建てられるということは、当然の権利であり、それを阻害するのは、国家による人権侵害だと主張する人たちがいます。


汚い町も、人権と自由の象徴。これでいいのだと主張します。


でも、私にはその感覚が理解できません。



本来人間とは、野放図に生きていいものではなく、社会から規制されてはじめて美しく生きていけるものです。


それは家にももちろんいえます。


お金出して買ったから俺の自由、なんてことはなく、所有する人には、それをよりよい状態で所有する義務が発生します。


欧米ではそれがかなり厳しいですね。


アメリカの高級街では、家の景観までこと細かく決められており、芝生を定期的に刈らないと、追い出されてしまうそうです。芝生は面倒だからはがしてしまうのもダメらしいです。


野放図に個人の趣味だけで建てた家の集まりは、見ていて汚いです。


家は、個人が自由にすることなどできない国家の資産です。


それを甘くしたため、日本の景観は絶望的なほど汚くなりました。


本当にどうにかしてほしいものです。



せっかく恵まれた風土があるのに、それを台無しにしているなんて、もったいないです。



改善策としていくつかあげます。


まず、ちゃんとした都市計画に基づき、家はきちんと決められた場所に決められた形状を守って、シンプルなものを立てるべきでしょう。


できれば、家はすべて建売にしたほうがいいと思います。


個人の趣向は極力抑えるべきだと思います。


そして、建材も、自然素材を使い、なるべく長持ちする家を建てる。



日本の家の寿命は30年。ローンが終わる頃には廃屋になります。


しかも、廃屋は産業廃棄物のような人工素材の山。


日本全国のゴミの総量のかなりのパーセントを占めると思います。



これをなんとかしなければ。


個人の趣向をなくし、家をシンプルな箱型のどれも同じようなものにし、どの家に住んでも大差がないようにする。


その上で中古市場を発展させれば、古い家でも長く使うようになると思います。


そうすれば、もっと長持ちする自然素材の家が出てくると思います。


賃貸住宅市場をもっと発展させてもいい。



・・・でも、これら、戦前までは当たり前のように行われてきたことです。


明治の頃の話を読むと、当時は、都市計画で碁盤の目のように作られた町に住み、


シンプルな古い家に賃貸しているのが普通だったようです。


そして当時は、まさか30年でダメになる家などなかったようですね。


当時の街の風景を見ると、綺麗に整備された街は、スッキリしていて、天然素材の家は自然とまっちしています。


日本の風景も美しかったようです。



日本の風景を美しくするためには、戦前の知恵をもう一度再現すればいいのではないかと思います。


美しい風景とは、人間の生存に心地よい風景。


土台がいいのだから、日本の風景、どうにかしてほしいものです。


環境保護というと、なにがなんでも自然を壊さないようにしようとする人たちがいます。


美しい自然とは、人の手が入っていない自然と、心の底から信じています。


でも、私はそう思いません。



私は趣味で山歩きをしています。


人の手が全く入っていないような奥山に行ったことはありませんが、でも、町に比べればはるかに人の手が少ないと思います。


素の自然が一番豊かで美しいと信じる人たちは、山奥の自然は、この世で一番美しい自然となるのですが・・・。


山奥の自然は、生物多様性に乏しく、風景は単調で、あまり美しいものではありません。



サハラ砂漠は美しいとか、アラスカの原野は美しいと感じるかもしれません。


でも、あれが美しいと感じるのは、写真の風景だからだと思います。


私は、エジプトのサハラ砂漠に行ったことがあります。


確かに荘厳で美しい風景です。


でも、実際にあの場に立ってしまうと、美しさよりむしろ、生命の危険を伴うような恐ろしさを感じました。


まるで太平洋の真ん中に立っているような一面の砂の海は、もし車がなければ死を意味します。



私が思うに、人間が美しいと感じる自然の風景は、結局、人間と自然が調和した風景ではないかと思います。



人間は古来自然を改変して、自分達が最も快適に過ごせる空間を作ってきました。


素の自然は、人間の生存にけっして都合のよいものではなかったからです。



そして、人間にとって都合がよい環境は、実は多くの生物にとっても都合がよい環境だったようです。


そのため、人間が住み着いた里では、生物多様性が増し、色とりどりの四季の移ろいや、さまざまな動植物が見られるようになったと思います。


いわば庭園的な風景が広がったということですね。


本当のことをいうと人間は、自然の生態系を破壊したのではなく、生態系がより発展しやすい環境を整備し、その生態系と共生することによって、多くの人間を養ってきたのだと思います。



そして、それに失敗した文明は、ことごとく滅亡しました。


それは、人間が石油やウラン燃料を食べて生きる生き物ではなく、他の生物を食べて生きる生き物である以上、他の生物と共生していかなければ生存できないからです。


本当のことを言えば、人間は目で自然を美しいと感じるのではなく、お腹で美しいと感じているのだと思います。


美しい風景とは、おいしいご飯がたくさん食べれる風景です。


だから、サハラ砂漠は荘厳な風景であっても、美しい風景とはなりえないのです。



環境保護、環境保護といって、手入れを放棄すると、生物多様性は増すどころか、それは破壊され、どの生物にとっても厳しい本来の荒々しい自然に戻ってしまいます。


その荒々しい自然を美しいと思うかどうかは、個人の好みかもしれませんが。


でも、そんな荒々しい自然では、生き残れる生物は限られ、また、それが養うことができる人間も限られてしまいます。



私は、都会の公園が大好きです。



美しい自然を求め、各地の山を歩き、いろいろな田舎にも行きました。


でも、それらの場所は、美しくも厳しい世界です。


私は田舎の育ちなので、田舎の厳しさが骨身にしみて分かります。


アジアやヨーロッパの美しい田園風景を見ると、多くの人は、美しいなあと感動するようですが、田舎育ちの私は、これだけの風景をこれだけ少数の人たちで維持していくのは、すごい重労働だと感じてしまいます。


月光に輝く千枚の田んぼ、これら一枚一枚、若者から老人まで、家族総出で何日もかけて耕しているのです。


地平線まで続く麦畑。


麦って本当に、かさかさして、体がかゆくなる。


このかゆさをがまんして、みんな一生懸命育てているのです。


地平線まで続く畑を馬で耕せといわれたら、どんな気持ちでしょうか?


果たしてこの風景を本当に好きになれるかどうか?


地元の人たちの顔には深い苦労のしわが刻まれ、皆もくもくと作業を続けています。


彼らが美しいと感じる風景は、家庭の暖炉の風景だと聞いたことがあります。


そして彼らが美しいと感じる自然は、庭に植えた一輪のバラ。


地平線まで続く麦畑を眺めた時、これから続く作業の厳しさを思い浮かべ、戦慄を感じるようです。



都会の公園を見たとき、純粋に人間が心地よいと感じることを目的につくられた風景に、本当の美しい自然を感じました。


東京の夢の島公園のユーカリ並木や、上野公園のさまざまな木が茂る森。


見ていてあきません。


ことにお気に入りは、千葉県の幕張ですね。



私はヨーロッパやアメリカに行ったことがあり、そこでの風景を美しいと感じてきました。


しかし、なんのことはない、わざわざ外国まで行かずとも、千葉県の幕張に行けば、ヨーロッパのような風景が広がっている。


しかもそれは、本当のヨーロッパの風景のような厳しさを含んだ風景ではなく、純粋に人間が楽しむために作られたまるでおとぎの世界のような美しい風景です。



今年の1月、東京ディズニーランドに行き、幕張のホテルに泊まりました。


どの部屋も素晴らしく綺麗で、サービスもよく、快適な環境の中眺める東京湾は、太陽に輝き、冬の淡い緑に照らされた庭園は、それはもうこの世のものとも思えないほどの美しさでした。



私は美しい自然を見に都会に行きます。


そして、厳しい自然を感じるため山に登ります。



2つの自然はどちらも魅力的です。


一方が安らぎを与えてくれるのとは反対に、一方は生命の危険を感じさせるスリルを与えてくれます。



山から眺める風景、村から眺める風景、町から眺める風景。


昔の浮世絵で眺める日本の風景は、美しいと感じるのですが、今の日本の風景はあまり美しいとは感じません。


やはり調和が崩れてきたからではないかと思います。


人間の本能が生存の危機をひしひしと感じているからかもしれませんね。


今、地元では、風力発電でもめています。


以前はクリーンな完璧なエネルギーと言われた風力発電ですが、最近、その害が明らかになってきて、大変な問題になっています。


私の地元、愛知県東部は、風力発電の先進地域で、田原市の蔵王山、豊橋市の三河湾に面した港、またすぐ隣の静岡県には遠州灘を見渡す海岸にいくつも風力発電の風車が回っています。


それらが出す低周波の振動によって、近隣住民の健康が害されていると、最近ようやく分かってきました。


その症状は個人差があり、まったく問題にならない人がいる一方で、頭痛がしたり、呼吸がしにくくなったりと、深刻な症状を訴える人もおり、深刻な状況になっています。



今、私の住む新城市でも作手地区の山の上に風車を設置しようという計画があり、地元で議論となっています。


ある人など、


風車は、絶対につくってほしくない。


と強行に反対しています。



市は、風車を住宅地から離れた場所に作り、厳しい規制を敷くから安全と説明していますが、


なにぶん新しい技術なだけに、まだ、どのような弊害が出るのか分からないのが怖いです。



それに風力発電、風車の寿命が20年ほどしかなく、また、耐用年数は17年なので、17年で設備を替えていたら、産業廃棄物がたくさんでてしまいあまりエコにならないとの話しもあります。



風力発電をはじめとする新技術のエコエネルギー、今実験段階です。


波動発電、太陽電池、地熱発電、などなど、まだ未熟な分野だけに、風力発電のような未知の危険がこれから明らかになってくるかもしれません。


技術の進歩による問題解決が望まれます。


環境関連の本を見てみると、まるで生活費をきりつめればきりつめるほど環境にいい生活ができるようなことをうたった本を見かけます。


でも、私は、ケチとエコが同じとは、とても考えられません。


自分、お金を切り詰めてストレスのたまる生活を送るより、エコもかしこも忘れ、財布とにらめっこして、できるだけ豪勢な生活を送ったほうが人生楽しくていいなと感じています。


実際、そんな生活を送ってみて、気がついたのですが、自分、すごくエコロジーな生活をしている。


高速道路を使えば、快適に目的地に行けるだけでなく、車の排気ガスも減らせる。燃費も良くなる。


冷蔵庫に物を詰め込むのをやめ、バーゲンを無視して、必要な時に必要なものだけ買い物すれば、冷蔵庫の中の食品の持ちが良くなる。


買い物はいいものを選んで買えば、長持ちしてゴミを減らせるし、使っていて楽しい。


などなど、


環境のため、それより経済のため、そんなこと考えてケチケチ生活をして、まるで自分がエコロジストのように考えている人いますが、実際は、環境に悪いだけでなく、お金も貯まらず、ストレスがたまるだけの生活を送っており、貴重な人生を楽しめないでいるのではないかと思います。


消費は悪だとは思いません。


エコと人の快楽は、けっして対立するものではないと思います。


今日、静岡空港が開港しました。


牧ノ原の台地を切り開いて作った空港。お茶畑と富士山がとても綺麗なところです。


私は静岡ではありませんが、愛知の東の端っこに住んでいるので、静岡空港には、セントレアと同じぐらいの距離で行けます。


交通アクセスの容易さと、連休の混雑を考えれば、重宝しそうです。



昨日に引き続き飛行機ネタですが、今後、飛行機は中長距離交通の要になっていくのではないかと思います。


新幹線の路線を北海道に伸ばすよりも、あまり人が住んでいない田舎に高速道路を作るよりも、人口集積地を点と点で結ぶ飛行機は、大きなメリットがあると思います。



東京の1,000km南、太平洋の真ん中にぽつりと浮かぶ熱帯の島々、小笠原諸島・父島では、空港建設が物議をかもしています。


地元の強い要請にも関わらず、環境保護の観点から幾度も中止になってしまっているそうです。


現状では父島に行く手段は船のみ。一週間に1往復しかしない船で、2日ぐらいかけて行くことになります。


島民はまさに島流し状態。


緊急時には、自衛隊のヘリコプターで本土の病院に行くことができるそうですが、でも、それ以外の用事では、2日間かけて船に揺られて行くしかありません。


空港を切望する島民の気持ち、よく分かります。



環境か島民の利便性かと問題になっているそうですが、本当の論点は全く別のところにあり、


私には、この問題、簡単に解決できると思います。



父島の北にある兄島に空港をつくろうとか、父島をならして空港をつくろうとか・・・。


どうも観光客誘致のため、大規模なジャンボジェット機の離着陸を想定した空港にこだわっているから、費用もバカにならないし、島の大きさから難しかったり、また、環境も大規模に破壊してしまうため、空港建設ができないと言っているのではないかと思います。


果たして、父島にとって、空港をつくるならどうしても大規模空港が必要なんでしょうか?


また、空港ができれば、観光客がわんさと父島を訪れるのでしょうか?


よく小笠原諸島と比べられるのは、南西諸島です。


東京からの距離は、小笠原諸島・父島が1,000km、南西諸島・沖縄本島が2,000kmと父島のほうが近いですが、飛行機に乗ってしまえば、たかが1時間の差。


距離の近さはそれほど大きなメリットとはならないと思います。



問題は、観光設備の充実と人口規模を含めた島の大きさです。


父島の面積は、23k㎡。しかも絶海の孤島。


対する沖縄本島の面積は、1,207k㎡、父島の50倍、本土の一地域ぐらいの面積があり、もはや離島レベルではありません。


しかも、周りを多くの島々が取り囲んでいるため、海域全体で見た時の面積はさらに大きくなります。


人口に関しては、父島2,000人、沖縄本島120万人と、桁が違います。


沖縄本島は、島を越えた一つの地域であり、そこには都市もあれば田舎もあり、綺麗な海だけでなく、深い森も広々とした草原もあり、あらゆるエンターテイメントを楽しむことができます。


一方、父島は、人の手が入らない素の自然を楽しみたいスキューバダイバーなどにとっては、聖地とも言える場所ですが、食、サービス、買い物などなど、南の島でのエンターテイメントを楽しみたい一般の旅行者にとっては、味気ない場所のような気がします。


一般の旅行者にとって、海の綺麗さも、自然の美しさも、旅の楽しみの一つであり、全部ではありません。


総合点では沖縄本島が勝ると思います。



たぶん空港建設にgoサインが出ない最大の理由は、父島に空港を作っても、それに見合った観光客は見込めず、採算が合わないと、行政が考えているからではないでしょうか?



そこで、発想を転換して、利潤よりも島民の生活の利便性を考えれば、小規模の海上に浮かぶ空港がベストだと思います。


父島と兄島の間にある入り江にパネルを浮かべ、人工島を作り、その上にセスナ機が止まれるぐらいの小規模な空港を作ればどうでしょうか?


環境破壊も最小限に抑えられ、地元の人たちの利便性も向上すると思います。


造成費用も維持費用も最小限に抑えられるため、赤字にさえならないと思います。


ダイバーの聖地として、一定数の観光客は見込めるだろうし。


小規模空港が父島の身の丈にあったレベルだと思います。



アメリカやカナダなどでは、空の旅は一般化していて、電車やバスに乗ったりするのと同じ感覚で飛行機に乗っているようです。


事情を調べたわけではありませんが、そのため各地に小規模空港があるのではないかと思います。


実際、長距離移動のバスや電車は、飛行機に顧客を奪われ、あまり人気がないと聞いたことがあります。



莫大な公的資金を使い、広い大陸を縦横無尽に高速道路と線路で埋め環境を荒らしまくるより、都市と都市を点で結ぼうというアメリカの考えは、合理的かつ、理にかなった方法だと思います。



小笠原諸島や南西諸島などの離島を除けば、日本は、東京からせいぜい半径1,000kmぐらいの円の中にすっぱりおさまってしまうぐらいの大きさです。


都市間の距離も数百キロ程度。


アメリカのような広大な国ではないのだから、陸路の充実で十分。


そう思いがちですが、莫大な費用をかけ、環境を破壊して巨大な道を作るより、


やはり風景も何も変えない空の道は、昔の海の道に通じるところがあり、利便性の面からも、環境の面からも優れていると思います。



ジャンボジェット機が飛ぶような大規模空港は札幌、東京、大阪、名古屋、福岡、那覇ぐらい。


あとは、各地に小規模な空港を作って、空の道を結べば、これ以上、遠く離れた都市と都市を結ぶ高速道路や線路をつくる必要はなくなると思います。


ただ、飛行機は、搭乗手続きが大変。このあたりの改善が望まれます。


もし電車に乗るぐらい気軽に空の旅を楽しむことができるようになれば、日本のどこに住もうが、気楽にどこにでも行けるようになり、日本各地がもっと活性化すると思います。


日本のどこに住んでも車で1時間の距離に1つ空港があるようにする。


理想ですが、将来的には実現するかもしれませんね。


飛行機といえば、環境に悪い乗り物として非難の的となっています。


でも、ちょっと面白い話を聞きました。


飛行機は、せいぜい3000mの滑走路さえあれば足り、目的地までのインフラ整備が必要ない。


密林に道を切り開いたり、野生動物の世界に人間が立ち入ることなく、人間を安全確実に目的地に運ぶことができる。


ことにジャンボジェット機においては、大量の人や物を数千キロ離れた場所までいっぺんに運べるため、すごく効率がよい乗り物とのこと。


上空のジャンボジェット機は、いったんスピードがついてしまえば、後は惰性で飛んでいるため、それほど燃料を食わないと聞いたこともあります。


地上で生きている人間にとっては、空を飛ぶ危なっかしい飛行機も、科学的に見れば、飛んでいるのが普通の状態で、落ちることはよほどのことがない限り考えられないそうです。


ちょうど、人が大地に立っていたり、船が水の上に浮かんでいるのと同じ感じですね。



一番効率がよく環境によい乗り物は船です。


かつて江戸時代は、大量物資の移動は船が中心、近距離移動は徒歩が中心と、交通事故も少なく、すごくエコロジーな交通事情だったようです。


今の生活を維持するためには、単純に昔に戻ればいいとは言えません。


そこで飛行機が船になりうるなら、面白いことになりそうですね。


野性の生活圏を荒らして人間の生活圏をつなぐ道と、人間の生活圏を点として結ぶ飛行機。


考えようによっては、飛行機は確かに安上がりかつ環境に優しい乗り物かもしれません。


映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」の最初の舞台はジャマイカのポート・ロイヤル、首都キングストンの南5kmにある今はただの寒村だそうです。


でも実際に撮影をしたのは、東カリブ海に浮かぶセント・ヴィンセント島。


丸い湾があって、すごい田舎で、ホテルが建っていない。


場所探しにはなかなか苦心したとの話し。


映画を見た方はすでにご存知のとおり、裏手に山、椰子の木が茂る海岸沿いに、イギリスの要塞と昔ながらの家々が並ぶ風景は、異国チックで思わず見とれてしまいます。


一度は行ってみたいところですね。


人が自然と共生しているイメージの強い熱帯の国では、人力交通が発達しているような気がします。


しかし、先日、インドネシアの人と話していて、衝撃の事実を知りました。



俺、インドネシアでは自転車乗ったことないよ。


インドネシアでは、オートバイと車。


道が恐ろしく悪くて、自転車乗ったら死んじゃうよ。


でこぼこで、股間痛くなっちゃう。


日本に来て道が綺麗で自転車乗れるからうれしいよ。



意外なことですが、発展途上国と言われる国々では、先進国に対する劣等感か、またはかつての日本人のように車に乗ることは発展の印、車に乗ることは文明人の証とばかりに、車に対する信仰が厚く、見栄をはっても車に乗ろうとするようです。


そのため、すさまじく燃費の悪い、その上排気ガスばかり撒き散らす劣悪な価格の安い中古車を皆、競って乗るようです。


日本では、排気ガス規制でひっかかりそうな中古車が東南アジアで噴煙をあげて走っている。


そんな光景が目に浮かびます。


東南アジアの人達は、車に乗ることが文明化だと信じ、徒歩や自転車をバカにする傾向があるようです。



日本では、車より自転車のほうがかっこいい乗り物なんだぜ!


いずれそう言えることを祈っています。



インドネシアでは、綺麗な高速道路はあるのに庶民の生活道路は貧弱。


政治の問題でしょう。


でも、インドネシアのことばかり言ってられません。


日本の道路も自動車中心で自転車のことを考えていません。


人間が生活するのはだいたい半径5km以内の生活圏。


自転車道が整備されれば、自転車は自動車より利便性の高い乗り物になると思います。


実際、東京や大阪、名古屋などの一部では、渋滞ばかりにひっかかる自動車より、自転車のほうが使い勝手がよく、庶民の足となっています。


ドイツ、アメリカ、北欧などでは、自転車道の整備が急速に進んでいます。


日本もそういったところに公共工事費を使ってほしいものです。