「バリッ!」と何かが割れる音がした。

これは、私が高校3年生の頃に経験したエピソードだ。
その時のことは今でも鮮明に覚えている。

私は生まれつきの難病、脊髄性筋萎縮症(SMA)を患っている。SMAは根本的な治療法がない進行性の病気で、成長とともに筋力が衰えていく。歩くことはもちろん、座ることさえ難しくなる。この病気の影響で、私は高校生の時に電動車椅子を使っていた。

高校3年生の頃、放課後に母が車で迎えに来てくれる時間を、
玄関で電動車椅子に乗りながら過ごしていた。

遊んでいるように見えるかもしれないが、私にとってはただの「待ち時間」ではなかった。実は、中学生の頃から高校2年生まで、私は筋力の衰えが進行し、電動車椅子に乗ることができない時期があった。

そのため、再び電動車椅子に乗れるようになったことは、私にとって大きな喜びだった。だからこそ、高校3年生になっても電動車椅子で「遊ぶ」ことが楽しかったのだ。

また、その頃、私は電動車椅子サッカーにも夢中になっていた。
少しでも時間があれば、学校の玄関で電動車椅子の操作練習をしていた。

玄関近くには段差や勾配があり、電動車椅子で通るのが難しい場所がたくさんあった。

その挑戦が私を引きつけた。

そんな場所を見つけると、無意識のうちにどんどん突き進み、
どれだけ器用に操作できるか試していた。

ある日のことだった。

いつものように学校の玄関で電動車椅子を動かしていると、突然「バリッ!」と音がした。

何かが割れる音だった。驚いて音の方を見ると、小さな植木鉢が粉々になっていた。


私は焦った。慌てて周りを見回すと、一人の若い男性の先生が私をじっと見ていた。

しかも体育教師だ。

 

 

その先生が他の生徒を叱っている様子を見たことがあったが、めちゃくちゃ怖かった。

そして、その先生がゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。

「これは詰んだな…」

私は覚悟を決めた。割ってしまった植木鉢、無邪気に遊んでいた自分、きっと先生に叱られるだろうと心の中で反省し始めた。

しかし、先生の表情には不思議と厳しさがなかった。先生はただ「わざとやったわけじゃないんだよな?」と問いかけてきた。私はすぐに「もちろん、わざとじゃありません」と答えた。

すると先生は「俺はお前が望むなら、このまま見なかったことにして黙っててもいい。どうしたいか自分で決めろ」と言い、割れた植木鉢を気にする様子もなく、立ち去っていった。正直、拍子抜けした。

その植木鉢を割ったことを知っているのは、私と先生だけ。先生が黙って見なかったことにしてくれると言うなら、私が壊したという証拠は残らないし、誰かに叱られることもないだろう。それは願ったり叶ったりだ。

しかし、その場に立ち尽くしていた私は、心に引っかかるものを感じた。

その植木鉢は、小学1年生の教室の外に置かれていたものだった。私はふと教室の方を覗き込んでみた。窓の向こうには、A4サイズほどの画用紙に描かれた可愛らしい花の絵が飾られていた。その絵を見た瞬間、胸が締め付けられるような気持ちになった。

きっと、あの植木鉢で育てている植物が成長したら、あの絵に描かれたような綺麗な花が咲くのだろう。

そんな想像をしながら、心躍らせながら、
あの子どもたちはこの絵を描いたに違いない。

私はその情景を想像し、どうしてもこのまま黙っていることができなくなった。

自分が植木鉢を壊したことを黙ってさえいれば、
私は叱られることもなく、その場は平穏に過ぎていくだろう。

証拠もない。でも、それで本当に良いのだろうか。

小学1年生の子どもたちが大切に育てていた植物が、
私のせいで壊れてしまったことは事実だ。

明日の朝、その植木鉢を見た子どもたちはどんな思いをするのだろうか。

きっと悲しい思いをするだろう。
もしかしたら、泣いてしまうだろう。

私は大きく息を吸い、校舎に戻った。

そして、その植木鉢を割ったところを見ていた先生を見つけ、「黙っててもらえるのは有り難いんですけど、やっぱり謝りに行ってきます」と伝えた。

すると先生は笑いながら「せっかく俺が黙っていてやると言ってるのになー」と言いながらも、何だか少し嬉しそうな表情をしていた。

翌朝、私は担任の先生に叱られた。しかも、思っていた以上に、お説教が長かった。 途中、「やっぱり黙っておけばよかったかな」と思ったのも本音。

植木鉢を割った日の夜も、母に叱られたが、
有り難いことに母の説教は、いつも一瞬で終わる。

「バカかお前は。すぐ謝りに行け!」

大体こんな感じ。10秒ぐらいで終わる。

だが、そう言って母は、
すぐにホームセンターに走り、代わりの植木鉢を買いに行ってくれた。

当然、植木鉢を買ったお金は私の財布から抜かれたわけだが、「あんた、お母さんを使いっ走りするなんて植木鉢より高いよ」と言い、お釣りを返してくれなかった。なんでやねん。

そして、担任の先生のお説教が終わった後、
私は新しい植木鉢を持って、小学1年生の教室へ謝りに行った。

幸い、植木鉢は割れてしまったが、
肝心の植物は無事だったらしい。

すると、1年生の先生は「別に良かったのに。しかも、わざわざ代わりの植木鉢を買ってきてくれて」と優しく対応してくれた。

何より心配していたのは、小学1年生の子どもたちが悲しい思いをしていないかという点だったが、その先生が割れた植木鉢を見せる前にそっと中身を入れ替えてくれたそうで、子どもたちは悲しい思いをすることはなかったらしい。

私はそれを聞いて、とても安心した。

後日、私が植木鉢を割ってしまった様子を見ていた先生にも報告に行った。

すると先生は「俺がせっかく黙っておいてやると言ったのになー」とまた茶化したように言ってきたが、

続けて「でも何で正直に言おうと思ったんだ?それが正しいと思ったからか?」と真剣な表情で尋ねてきた。

そこで私が少し考えて、「正しさとかよくわからないんですけど、このままだと自分のことが格好悪いと思えるからですかね?」と今度はこちらが少し茶化して返した。

すると、先生はまた笑いながら、「それでいいんじゃないか?正しさも大事だけど、自分が格好いいと思えるかどうかって意外と大事だったりするからなー」と言ってくれた。

その時の先生の言葉は、私の心に深く刻まれた。

大人になった今、
人として、経営者として、何かを決断することは多い。

正義とは何か、善とは何かを日々考えさせられる。

ときにこの情報社会、
世間やSNS、メディアが善悪や正義を決めることさえあるが、

それだけではなく、「自分がどう感じるか、自分にとって何が格好いいのか」を基準にしても良いのだと気づかされた。

その経験があってから、
私は「いつも自分を格好良いと思える自分でありたい」と強く思うようになった。

そしてその意識が、日々後悔のない決断をする上で、
大きな支えになっている。

(本画像はAIで、当時のイメージをイラスト化したものです)


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