春夫の碑を訪ねて【1】~羽咋工業高等学校校歌碑
はじめに佐藤春夫が関係する碑はどのくらいあるのだろうかと、新宮市立図書館を退職した令和3年夏から全国を回りはじめる。まだ現地に赴いていないところも含め、71基あることがわかった(令和6年6月末現在)。令和5年12月、そろそろ纏め上げておかなくてはと、熊野新聞社の寺本一生代表取締役に相談したところ、熊野新聞紙上での連載の許可をいただいて、連載を開始した。これまで、「佐藤春夫の詩碑」については、早稲田大学文学碑と拓本の会編になるもの(1970年二玄社刊)があるが、これはあくまでも詩碑に限定されたものである。ゆかりのある碑となると、倍増するものがある。令和6年5月10日、公益財団法人佐藤春夫記念会理事会終了後、辻本雄一館長より、記念館のブログにも連載をしてはどうかとの話があり、熊野新聞の掲載後にとの約束でスタートすることになった。拙い文章ですが、またいつまで続くかわかりませんが、お付き合いください。【森 奈良好】1.羽咋工業高等学校校歌碑所在地:石川県羽咋市西釜屋町ク21春夫は、昭和37年7月2日から6日まで、千代夫人同伴で、校歌作詞の下調べも兼ねて能登道を訪れている。春夫が亡くなる2年前である。石川県立羽咋工業高等学校には碑は二つある。一つは、校歌碑である。校門から50㍍はあるだろうか。「絶好無二の天然ドライブウエー千里浜を快走して金沢に」と、春夫は「能登半島の旅」に記している。一直線に伸びる校舎内の道は千里浜の砂浜を連想させる。石川県立羽咋工業高等学校校門付近 『工芸台十年』によると、〈校歌は校章とともに学校のシンボルであり、学校の存続する限り、生徒が誇りをもって歌い継ぐべきものであるから、作詞・作曲をわが国の第一人者に依頼したいという意向をもって、開校草々にその人選に入った。作詞者の第一候補として佐藤春夫氏を推薦するという県教委の寺田正栄指導主事(現金沢女子高校長)のアドバイスを受け、佐藤氏の秘書である宮本篤氏(寺田先生の知人)を介して打診したところ「先生は能登を訪れたことがない。羽咋には折口信夫氏の墓があると聞いているので、墓参をかねて能登を廻り、その折に学校を訪ねてもよい」という便りをいただき、平野校長は直ちに上京、佐藤氏邸に赴き校歌の作詩方を懇請し快諾を得た。〉折口父子の墓 (2022年11月14日撮影)作曲は、信時潔。校歌制定は、昭和37年10月10日。その校歌は、一 古の地に新しき/文化を産むと若人の/志見よ我らみな/国の内外(うちと)に雄飛せん/自律の児らの睦まじく/楽し我らが学窓は二 松根つづき庭広く/海山見えて窓高し/秀麗の地の学校(まなびや)に/すぐれたる子ら巣立つべし/自律の児らの睦まじく/楽し我らが学窓は三 技藝(わざ)に学業(まなび)に人格(ひとがら)に/向上の途(みち)一すじを/進まん我ら希望あり/工藝(たくみが)台(おか)の春秋(はるあき)や/自律の児らの睦まじく/楽し我らが学窓は/自律の児らの睦まじく/楽し我らが学窓は歌詞2番にもあるように「広い庭」に、校歌碑は建立されている。石川県立羽咋工業高等学校校歌碑縦70㌢㍍、横345㌢㍍で、左端には「校歌の碑 贈 第二回卒業生一同 昭和四十一年三月九日」、その裏面に石匠名が刻まれている。歌詞は、春夫の自筆で彫られている。※写真撮影は、著者。使用に際しては記念館に事前ご連絡ください。