ラジオ番組で紹介されていたので興味を持って読んでみました。まず”超”概要はGoogl Bookより引用します。
国民をテレビの前に集合させた男たち。
視聴率50%を超えた「全員集合」はどのようにして生まれたのか。ザ・ドリフターズを気鋭の論者が舞台・演劇の視点から読み解く。
僕(60才)も完全に「全員集合」世代なので、ドリフターズの「誕生」「志村の加入」「衰退」の詳細を知ることができて良かったです。
印象的だった箇所です。
メンバーの芸名が決まった時のエピソードはおもしろかったです。命名したのはハナ肇・・・芸能界は水商売だから水に関係した名前が良いという理論で、それぞれの名前が説明されている。
「いかりやは碇が水に関係しているからそれでいい。ただ、長一(本名)だとイチで止まってしまう。スケ―って伸ばした方が響きがいいな」
「自分で加トちゃん、加トちゃんって言っているよな。じゃあ、茶だ」「お前は要注意人物だから注にしろ、サンズイがいいんだ」「よくケガしてるから工事中の工事にしちまえ。工事は水たくさん使うだろう」「おまえはブータンって呼ばれてるな。タンは余計だからブーでいい。豚はキレイ好きなんだよ。豚小屋は水で洗うよな」
メンバーは誰も納得していなかったが、偉大な大先輩に言われては逆らえない。いかりや長介、加藤茶、荒井注、仲本工事、高木ブー、彼らの芸名が一夜にして誕生した。
改名直後の1966年6月、ドリフはビートルズ来日公演の前座に出演し、パンフレットにも新しい芸名が掲載された。
コント55号との2強時代について。
この時代に彼らが頭一つ抜きん出たのは、いかりやと萩本がテレビという新しいメディアの特性を見抜いたからである。彼らは、テレビにおける笑いの芸が、寄席や劇場の芸と全く異なるものだと気づいた。
これまでの芸人は、一つのネタを何年も練り上げて完成させるため、持ちネタが少ない。だが、一度に何百万人もが観るテレビは、そのネタを一瞬で消費してしまう。
日本テレビが誕生してから10余年、多くの芸人がその怖さにまだ気づかずにいるなか、ドリフとコント55号は常に新ネタで勝負する道を選ぶ。
なるほど~。そして、長くテレビはメディア王になる訳ですが、今まさにその王という座をネットというメディアに譲ろうとしているんですね。
いかりやは志村を次のように評している。
「笑いに関しては素人の集まりでしかなかったドリフだったが、今思えば、この志村だけが、本格的なコメディアンの才能をそなえていたのかも知れない」。
他のメンバーがプロのバンドマンを目指して芸能の世界に入り、途中で笑いに転じていったのに対して、志村は高校時代にバンド活動をしているものの、初めからコメディアン志望だった。
彼はドリフで人気者になってからも、寄席や劇場に足を運び、大量の映画やドラマのビデオを見て、笑いの研究を続けた。
仲本はそんな志村を次のように語る。「誰よりも新しい笑いに貪欲なんですよ。とにかくいろんな笑いや音楽を見たり聞いたりしてましたね。それを取り入れるのがすごく上手かった」
ビートたけしや明石家さんまによる「ひょうきん族」が台頭してきた時のお話。
1980年代から芸人は単なる人気者なだけでなく、若者のカリスマになった。彼らは「笑われる存在」から「笑わせる存在」になり、社会的地位を大きく向上させる。
そんななかでも、ドリフは「笑われる存在」にとどまり続けた。そんなことをいかりやはこう語る。
「僕たちの場合には、僕らの生活の裏を感じさせちゃいけない。舞台にポーンと上がったときに、見ている人が、あいつ本当にバカじゃないか、あれならオレのほうがましだ、といって指さして、ハハハと笑う。最高のときですね」
なるほど~、ひょうきん族とドリフにはそんな違いがあるんですね。
最後に筆者は演劇史のなかのドリフについて、こう記しています。
ドリフは常に大衆とともにあった。そのコントはマンネリと言われ、シュールな笑いもなければ、高度な社会風刺もない。だが、彼らは少数の理解者ではなく、大多数の大衆と向き合ってきたのだ。
次の志村の言葉がドリフの笑いの本質だろう。
「人間、辛いことがあっても、笑っていれば、瞬間その辛さを忘れることができるじゃないですか。たとえ一瞬でも・・・。そういう笑いを作れれば、僕は十分なんだよね。人に夢を与えようとか、エラそうなことは思わない。レベルが低いと言われようとも、夢を持てないような人たちにも笑ってもらいたい。辛さを一瞬でも忘れてもらえば『上等』だと」
これぞドリフであり、これぞ喜劇王志村けんである。
本作はドリフの誕生から終焉までをその時代とともに語られている秀作だと感じました。
そんな背景を知ることができて良かったと思うとともに、たくさんのドリフ世代に読んでほしい一冊だと思いました。
それほど寒くない朝を迎えた静岡の自宅にて