私自身への戒めでもあります。

 

自分を大切にする。

とか

自分のこころに聞く。

とか

やりたくないことから距離をとる。

ということを、意識的にやっています。

 

 

これは、人に合わせること、顔色をうかがうことが当たり前になりすぎて、自分が何を好きで、どんなことで喜んで、どんな風に人生の彩を作りたいのかが見えなくなっている自分がいたからなんです。

 

やりたいことに出会えたときのモチベーションの上がり方を知ってしまってから、あの麻薬的な快感を求めてやまず、己のこころに問いかけまくる日々を送っているわけなんですけども、一方でね、一方で

こんな感じで大丈夫なん?滝汗

って心配する自分がやっぱりどうしてもいるんですよね。

 

そんな風に心配する気持ちが足かせになっている説もあるわけなんですが、でも自分の性質上気になっちゃうもんは気になっちゃうので仕方ないです。

 

気になるんです。

 

 

 

で、

 

自分が求めるものを決めたら、あとは信じていればいい。

 

みたいなのあるじゃないですか。

 

 

あれ、わかるけどわかんなくない?wwwwww

 

 

日常的にあんまりやりたくないな~みたいなことはたくさんあるわけで。欲しいもの決めたからって、マジで何もしない自分でいいのか? って思うわけですよね。

 

やらなきゃいけないけど、

でも、やりたくないことはやりたくないし。

やったら、むしろ自分の直感をゆがめてる気がする。。。

とか思っちゃうわけです。

 

 

 

それで、今色々と本を読んでいる中で、ひとつ自分の中で腑に落ちるものがあったのでシェアします。

 

 

自分ではもはや理解ができない、超次元的なパワーを信じる気持ちと、一方では自分の思考が持つ力の解明を求める気持ち。これをうまく融合してくれてるものです。

 

 

 

思考が秘めている可能性に興味を持っているのに、自分自身は霊能者であると主張することほどその可能性を軽んじ、貶めるものはない。

 

※微妙に言い回しが変わっているかもしれませんが、意味合いはこんな感じです。

 

 

伝わりますかね。

 

 

超次元的な成果を待つ。というのは、イコール思考の秘める可能性を信じるということなんですね。思考の秘める可能性をどう解明していくか。。。ということが、イコール超次元的な成果を創りだすためには有効なわけです。

 

だというのに、「超次元的な成果を創りだせる特別な存在ですから」と、胡坐をかいてしまうのはもったいない。というような意味合いです。

 

おそらく、そういう思考でもきっと思考は現実化していくと思います。

でも、思考が引き起こすことは何か?を求めて動いていくことで、より正確な成果に近づけるのに、それをしないことは、つまり思考の秘める可能性を軽んじているということになる。

 

 

 

つまり、今まで私がやってきていたのは、自分の思考の持つ力を発揮したいと思っているのに、その解明に向けた行動を取らずに、ただ受け身でいただけ。

 

神様お願いします~! って初詣でお願いしているのと同じ滝汗滝汗

 

 

 

初詣の神社でもこう諭されます。

神様にお願いするだけではなく、

自分が一所懸命取り組むことを伝えてください。と。

 

 

超次元的なパワーを信じて、意図を投げておくことは大事。これ、目標ってやつね。

 

 

それが、どのように現実化されていくか、それを細かく決める必要はない。

というか、決められるんだったらやればいいだけなんだから、やれって話。

 

 

じゃあ、あとは自分がやることって何かっていったら、求める物を決めたうえで、今目の前のできることをすることだし、アンテナを張り続けることなんじゃないかなって思います。

 

 

行動をすることって、すべてにおいて大前提になっているはず。

 

 

思考の力と、実際の行動の力(アンテナを張っておくことも含む)。この双方を同時に動かしていると、欲しいものへのチャンスがやってきたときに、キャッチできるようになるんじゃないかな。

 

 

今目の前でやっている行動と、求めた物がどうつながっているかなんてどうでもよくて、ともかく今自分の目の前にあることに、集中して真摯に取り組み続ける。

 

という行動があっての話なんだよな~! と、つくづく思いました。

 

 

これでまたひとつ腑に落ちたので、次の目標とステップは新月のお願い事で完了しているから、あとは目の前のことに集中して、あらゆる体験を楽しんでいきます✨