郡上八幡を後にして、
再び長良川鉄道に揺られ、降り立ったのは白山長滝駅
『長滝白山神社』がお目当てです。
…の前に
足元を横切り、
ずっと動かず、こちらを見て瞳をパチパチ

御使いでしたか⁇
そしてこちらがお会いしたかった主様
神仏習合の旧観を保つ長滝白山神社と長瀧寺は、
三大霊山の一つ、名峰白山を御神体とする白山信仰の 東海方面の拠点です。
養老元年(717年)泰澄大師が開山の後は、山岳信仰の地、修験道への登拝口、美濃馬場として、上り1000人下り1000人と謳われる程、隆興していきました。
拝殿 木の感じがなんとも…
白山大御前(斜め後方)と 長瀧寺講堂
広い敷地内はとても静か
玉砂利の音や、虫の声
樹々の間を吹きわたる風の心地よさ
清澄かつ優しい
女性的だけど、力強いエネルギーに満ちています
郡上一帯は、水のせせらぎがあちこちに巡り、
境内の池や水路、表参道へと流れる水階段の清々しさにも、心浄められます。
「千蛇ヶ清水」と呼ばれ、五穀豊饒や悪疫鎮静の加持祈祷や護符に用いられる霊水
万年雪に覆われた白山頂上にある千蛇ヶ池に通じ、人々は薬水としてこの霊水を重宝したようです。
白山から湧き出る水が、先日の郡上八幡にも巡っているのですね。
水は冷たく、そしてまろやか
日本の大地に生きる日本人には、とても細胞レベルで馴染む気がします。
辨才天様のお社の前で手を合わせると、
ようやく来れました…という内なる言葉と、泣きたいような振動が起こり…
たおやかな波動に包まれました…
こちらは護摩壇跡地と金剛童子堂
修験道には欠かせない護摩行、
護摩木を焚き、願いごとの達成をはかる修法が為された地
金剛童子堂には、左ねじりの木が何本も供えられており、
供えることや、堂の周りを石を持って息をせず3周すると力を授かるようです。
でもやらずに帰り、ちょっとやればよかったかしら、と。
稲荷堂もありましたが、、
やっぱり 紅い鳥居 やお稲荷様のエネルギーは苦手で ちょっと急ぐ 

そして…
何気なく読んだ石標に、
全身鳥肌 サムボロ~~ 

それは、
郡上一揆の儀民碑でした。。
後で資料館(この日は閉館、残念)の資料に、傘連判状なども目にするのですが、
鳥肌と共に、突然涌いた塊に胸が詰まり。。
つい先日、
知人から、宝塚で異色の作品 農民一揆が主題で、これが周りも自分も泣けてという話を聞いたばかり。
なんともタイムリーというか。
(この後調べたら、「星逢一夜」だそう)
窮乏の極みだった農民と為政者の、どちらの立場だったか分からないけど、カタルシスだよね、
なんて、ついこの間話していたばかり。
その際に、
数年前、母がルーツ探しで郷土探訪から、見つけ出した史実、
宝暦二年(1752年)決起し、窮乏する農民の税の減免他、江戸へ上願に向かった一向の首謀者6名のうちの1人として、挙母(現 豊田)にて処刑。四郷の露と消えた先祖小栗がいたことを聞かされ、実際に、四郷町雲龍寺の碑を詣りにも行った話もしたのですが、
その時には感じなかった、たくさんの人の想いに涙が、、
1488年の加賀の一向一揆は大規模で有名ですが、
三河の地の百姓一揆、先祖の斬首と引き換えの請願と、
2年と離れていない宝暦年間に、郡上一揆も存在していたのです(今調べて知りました)
同じ時期に、同じ時代の中で生きた人間たちの生活があり、幸せや願いがあったのですね…
でも、今、それを誰が悪かった、何が…
と言っても仕方がないことです。
どの立場でも、皆が、その窓から見える風景を精一杯生きることしかなかったのですから。
折しも、昨日は終戦記念日でしたが、
天皇陛下のお言葉、
「 ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
私たちは、
これからの時代、
犠牲を払って、闘いから得られるものはないことを、
もうそれぞれが十分知っているように思います。
ご先祖様達の苦しみは、もはや繰り返す必要はないのです。
それには、
身近な平和を願うこと…
家族や、ご近所や、友達や、同僚
手の届く範囲、顔の見える範囲から、
憎しみや、怒り、
争いや、闘いを、
愛に変えていくことではないかと。
手が届く範囲…
一番身近は、”自分自身”
私自身が、自身をありのままに認め、
愛する。
自分以外のものになろうと奮闘し、
自分で自分を傷つけ、
見えない敵に怯え、
やらなくては、やられると武器を持ち、
城壁を厚く守らなくてもいいのです。
汝自身を癒し、
「内なる平和」を持ちたい ですね 🙏










