「どうしても伝えたいことがあります」

 

夜中、机に向かって書き出したところで、咲良はペンを止めた。

 

手紙を書こうと思ったきっかけは、昨夜見た夢だった。

 

まぶしい光の中で、彼と再会した。1年前、私を信じてくれた少ないうちの1人。

 

 

 

大学一年生の佐藤咲良は、その日もいつものようにTikTokを眺めていた。

 

卒業式のバルーン。

 

制服のままディズニーに行くJK。

 

マナーの悪い女子高生が容赦なく晒されているこの頃を、冷めた視線で追っていた。

 

——去年、卒業しておいてよかった。

 

そんなことを考えながら、親指は機械のごとくスクロールしていく。

 

けれど最近、ふとした瞬間に思い出すことが増えた事柄がある。
 

 

一年前のこと。

正確には、受験期のことだった。

 

 

咲良には、第一志望の大学があった。四ツ谷大学。

 

そこに合格するため、咲良は大学生がチューターとして働いている塾に通っていた。

 

担当の先生は寺本先生。

 

「かっこいい大学生」。

 

そんなフィルターを勝手にかけながら、咲良は受験勉強に向き合っていた。

 

もっとも、現実はなかなか厳しかった。

 

志望校との距離は遠く、高校でも厄介ごとを抱えていて、精神的にも余裕はなかった。

 

正直、合格は難しい。

 

咲良自身も、そして塾側も、
 

どこかでそう思っていたはずだった。

 

それでも——

 

最後まで信じてくれていた人がいた。

 

一つ上の先輩チューター、市原先生。
 

そしてもう一人が、同じく一つ上の増井先生だった。

 

その中でも、増井先生は少し特別だった。

 

大げさな励ましをするわけでもない。
 

根拠のない「大丈夫」を言うわけでもない。

 

ただ、当たり前みたいに信じている。

 

そんな人だった。

 

 

四ツ谷大学の推薦入試に落ちてから、
 

咲良の受験は、きれいな下り坂だった。

 

親の目。
 

高校の先生の目。
 

塾の視線。

 

全部が怖かった。

 

それでも、一般受験が近づく頃には、
 

咲良は少しだけ増井先生と話すようになっていた。

 

 

そして、ひとつだけ。
 

今でも覚えている出来事がある。

 

どこの大学の受験だったのかは忘れた。

 

でも、その二日前。

 

増井先生が言った。

 

「明日、塾行く予定なかったけど、朝だけ行こうかな。」

 

「え、なんでですか?」

 

「咲良ちゃんに会うため。直接応援する。」

 

ただのエールだと思っていた。

 

でも翌朝、咲良が塾に行くと、
 

本当に先生が来ていた。

 

少しだけ話して、
 

咲良が自習室に戻って、

 

もう一度外に出たときには、
 

先生はもう帰っていた。

 

その日、塾で先生を見ることはなかった。

 

まじかよ、と思った。まじかよ、嬉しいって思った。

 

期待に応えなきゃ。こんなにも信じて応援してくれているのだから。

 

……応えられなかったけれど。

 

 

その後、塾の卒業式が終わって、しばらくしてから、咲良は気づいた。

 

もう二度と会えない増井先生のことを、少しばかり惹かれていた。

 

とはいえその後、咲良は地元の同級生と恋に落ちて、半年ほど付き合ったりもした。

 

増井先生のことなんて、
 

すっかり忘れていた時期もあった。

 

それでも一年経った今。

 

あの頃の憧れのような感情が、
 

また少しずつ蘇ってきていた。

 

そんなある夜。咲良はひとつの夢を見た。

 

 

 

気がつくと、咲良はパーティー会場にいた。

 

通っていた塾主催らしく、卒業生向けのカジュアルな集まりらしかった。

 

受験を終えた元生徒と、チューターたちが談笑している。

 

ざわざわした会場の中で、
 

咲良は一人の人を探していた。

 

会いたい人がいた。

 

人混みの向こうに、見覚えのある髪型が見えた。

 

自分より少し背が高くて、
 

センター分けで、優しい顔の先生。

 

咲良は思わず声を上げた。

 

「増井先生!」

 

先生は振り返った。

 

あの頃と変わらない、やわらかい笑顔だった。

 

久しぶり、と軽く挨拶を交わしながら、
 

二人は会場の奥へ歩いていった。

 

ただ、ひとつだけ。

 

先生の目が、少しおかしかった。

 

瞳の奥に、
 

暗号のような模様が浮かんでいる。

 

カラコンかな、と最初は思った。

 

でも違う。

 

暗くて、
 

黒くて、

 

静かに何かを放っているような目だった。

 

そのとき先生が言った。

 

「この光を、少しだけ目に当てるだけでいい。」

 

先生の手のひらに、小さな光があった。

 

「力を貸してくれない?」

 

咲良はなぜか抵抗を感じなかった。

 

光を見ようとした、その瞬間。

 

誰かが後ろから咲良の腕を引いた。

 

「危ない。」

 

誰かは分からなかったけれど、低い声で忠告した。

 

「もう増井先生は変わってしまったんだよ。」

 

「あの光を見た人は、先生に従うようになる。」

 

それだけ言って去っていった。

 

 

呪い。

 

そんな言葉が頭をよぎった。

 

それでも——

 

咲良にとって、この機会は貴重だった。

 

どんなに変わってしまっても。
 

近づいてはいけないとしても。

 

一度だけ、ちゃんと話したかった。

 

だからもう一度、先生のところへ戻った。

 

二度目に会ったとき、
 

先生は光のことには触れなかった。

 

まるで何もなかったかのように。

 

「先生、連絡先交換したいです。」

 

「え?もうしてるよ。」

 

スマホを見せてくる。

 

「ほら。」

 

「え、なんで!?」

 

二人で笑った。

 

大学の話をした。

 

最初は行きたくなかった大学だったこと。
 

でも、そこで出会った友達に救われたこと。

 

話している時間は、
 

とても幸せだった。

 

そして咲良は言った。

 

「ごめんなさい。」

 

先生は少し驚いた顔をした。

 

「ここ最近、ずっと会いたかったです。」

 

増井先生は微笑んだ。

 

そして、咲良の目をまっすぐ見た。

 

瞳の奥の暗い模様が、ゆっくり動く。

 

次の瞬間。

 

視界に、光が流れ込んだ。

 

 

あの時のライトと同じ、白いのに黒い光

 

 

 

まぶしい光のあと、見えた景色は、ただの自分の部屋だった。

 

天井。
 

カーテンの隙間から入る朝の光。

 

全部、現実だった。

 

その日、咲良はバイトに行った。

 

レジを打ちながらも、
 

頭の中はずっと夢のことだった。

 

どうして、あんな夢を見たんだろう。

 

一年経って、また会いたいと思うこの気持ちは、きっと一瞬に過ぎない。

 

春になれば、
 

きっとどこかへ消えていく。

 

そう思いながら、その夜。

 

なんとなく昔通っていた塾のブログを開いていた。

 

受験生への応援記事。
 

校舎の写真。

 

画面を見ながら、
 

咲良は自然と増井先生のことを思い出していた。

 

今もあの場所で、
 

誰かを励ましているんだろうか。

 

それとも、もう卒業してしまったんだろうか。

 

そんなことを考えていたとき、ふと思いついた。

 

 

——手紙を書こう。

 

 

あのとき、信じてくれてありがとう。

 

本当に信じてくれていたのか、

 

それともそう思わせてくれていただけなのか。

 

正直、今でも分からない。

 

でも。

 

あのとき確かに、
 

自分は救われていた。

 

だからこそ

 

「先生のおかげで最後まで頑張れた。」

 

伝えたい。

 

咲良は机の引き出しから、一枚の便箋を取り出した。

 

その想いの遥か遠い所で。

 

夢の余韻は、まだ少しだけ残っていた。

 

 

 

ペンを進めながら少し思ったことがある。

 

夢の中では、増井先生に呪いをかけられてしまった。


でも、今になって思う。

 

あれは呪いなんかじゃなくて、
 

たぶんただの「影響」だったんだと思う。

 

受験期にかけてもらった言葉とか、
 

信じてもらえた記憶とか。

 

そういうものは、きっと少しだけ人を縛る。

 

でもたぶん、
 

悪い呪いじゃない。

 

この日から、世界が少しだけ暖かい気がした。