追記
皆さんご存知の通り2017年2月20日のSSAライブで橋本奈々未さんは卒業引退しました。
2月5日に横浜で行われた最後の個別握手会で卒業セレモニーを行いました。
下記のblogでは委員長を引退するつもりでしたが、6回目の最後の生誕卒業委員長を務めさせてもらいました。
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私自身ひょんなことから、2011年11月に生誕の責任者を引き受けて以来、5回目の生誕祭でした。
2011年11月と言えばまだ乃木坂はデビュー前です。
橋本奈々未さんの誕生日は2月20日、時間もない中で、MIXIを通じて4名の仲間がZEPP Tokyoのコンベションの後に集まりました。
4人中3名は学生で、受験などで忙しいので、私が取りまとめをすることになりました。
今の欅の生誕設立状況をみるといろいろ思い出すことがあります。
決定的に違う環境は、SNSは当時MIXIしかなかったこと、あとは、お手本になる生誕祭のスタイルがなかったことですね。
今でも覚えているのは、年末のソニービルのイベントで、運営に企画書を出したのですが、当時は全く返事をもらうことはできなかったです(笑)
恐らくソニー運営も生誕祭のイメージができなったのではないかと思います。
その後2月22日にデビュー曲「ぐるぐるカーテン」の発売が決まりました。
そして、デビュー日には全国のイオンでリリースイベントとして、ミニ握手会が行なわれました。
奈々未さんの誕生日に非常に近いデビュー日になったこともあり、私たちは新潟に決まったイベントでゲリラ的に生誕祭を行うことにしました。
私の個人的な経験は、SDN48の佐藤由加理さんの生誕副委員長をやったことでした。
当時AKBグループが劇場で行っていた生誕祭に対してすこし閉塞感というか、定型化したことに対する疑問もありました。
そんな中ぼんやりと、生誕祭をもっと自由な発想の中でヲタク主導でやれたなら、当時公式ライバルと言っていたAKBをその部分では超えることができるのではないかとも思いました。
日本一のアイドルグループであったAKB48に対抗するには、ヲタクとしてできるのはそれくらいしか考えつかなかったのです。
今も橋本生誕で着ている赤い生誕Tシャツも新潟で既に作り、その後も推しTシャツとして、生誕委員会内で希望する人には再プリントをして使っています。
これは、当時のある意味の熱い思いを忘れないために。。。
そう公式ライバル、AKB48を超えることが目標と断言した乃木坂46を、その中で橋本奈々未さんには中心メンバーに成長して欲しいと願った熱い思いです。
信じられないかもしれませんが、当時の橋本奈々未さんは今ほど乃木坂の中で目立つような存在ではなかったのです。
翌年の2013年は4人の成人式企画もあり、生誕祭も運営が柔軟に考えてくれるようになって、初めて合同生誕祭を、高山一実さん、伊藤万理華さんの生誕委員会と、今の生誕セレモニーのようにやれるようになりました。生誕連番もこの頃からやっていたのだと思います。
現在着ている生誕パーカーはこの時に作り、やはり、生誕内だけで希望者に再プリントしながら着続けています。最近この赤い生誕Tシャツやパーカーが目立つからか、どこかで誰かが売っているのか?と聞かれますが、仲間内で再プリントしているだけです。地下アイドルや、ハロプロなどでは良く見られるいわゆる推しTです。乃木坂では生誕Tなどを継続して着続けることがないので目立つようですね。赤を選んだのは、当時密かにソニービルのイベントで橋本奈々未さんに好きな色を2回ヒアリングしたところ、2回とも濃い赤が好き、という返事が返ってきたことによります。そして、バスケ好きの奈々未さんがスラムダンクが好きであろうという推察の元にデザイン、色は湘北高校を真似ています(笑)
その後乃木坂では、生誕祭は非常に盛んになり、現在行われているレーンデコレーションも始まりました。セレモニーも個別に握手会の間の休憩時間に行うことが運営の許可の中で許されています。
また、37生誕全てを網羅する生誕委員長のライン板というものも出来、活発に意見交換や、情報交換が行われているもの乃木坂ならではの横の連携ではないでしょうか。時には激論になりますが、箱推しの強い乃木坂だからこそできることだと思っています。これからも大切な独特のヲタク文化として継続してほしいと願います。
乃木坂の生誕祭は今では握手会におけるファンの楽しみに発展しています。
生誕情報をツイッターなどで流すと、沢山のお問い合わせをいただき、本当に楽しみにしてくれているのだな、と実感します。また、会場のファンの皆さんに楽しんでもらえるようにいろんなアイデアや工夫をするモチベーションになっていると思います。
運営サイドは握手会を盛り上げるイベントをヲタク主導で行うので、握手会のもうひとつの楽しみを、ある意味労せずして獲得できているイベントなのかもしれません(笑)
しかし、実は生誕祭を運営してみるとわかるのですが。。。。
これは、とても大変です。
推し被りの個性の強いヲタクが沢山いる中でいろんな決め事を行うのは容易ではありません。恐らく生誕委員長を一回でもやったことのある人は同じ感想を持っているはずです。
あとは、準備に時間とコストがかかることです。
橋本生誕では、今までほぼ毎年半年がかりで企画と準備を行ってきました。
泣きながら仕事をさせたこともあります。
これも全て、奈々未さんのため、ファンの皆さんの喜ぶ顔が見たいためと割り切って、鬼にならないと進まないことも沢山あるのです。
しかし、そんな苦労して終わったあとの生誕祭は達成感に包まれています。
今回の橋本生誕も現地で参加してした約50名はもちろん、ラインで生誕メンバーとして登録している130名が何かしらの達成感と充実感を得られた生誕祭になったと実感しています。
私は今回で生誕祭の取りまとめ責任者を引退します。
理由は、乃木坂があまりにも大きく成長し、私の手の届かないような規模になったこと。
そして、以前から思っていたことですが、一人の人間がいつまでも責任のある立場にいることは健全ではないからです。今回だけで橋本生誕は50人以上の委員が増えました。握手会全完売を叩き出す乃木坂バブル景気をひしひしを感じた1年でした。
乃木坂や橋本奈々未さんが嫌いになったわけではありません。これも長く推している人は共通の感覚を持つと思うのですが、乃木坂は家族のような存在になっています。しかし、実際の家族でも事件はいろいろ起こるように、乃木坂の4年半も平坦な坂道ではありませんでした。しかし、辛い時こそ、ピンチな時こそ、仲間のヲタクたちと結束しながらいろんなことをやれてきました。
4人(橋本、白石、松村、衛藤)の成人式企画、生駒総選挙、橋本奈々未神宮メッセージ・折り鶴企画、玲奈さん兼任解除企画、川後モデル企画、君の名は希望駅メロ企画など、思い出が一杯です。
敢えて言わせていただければ、私に体には紫の血が流れていると思っています。
それほどに仲間と一緒に応援し続けたことは、人生の中でも貴重な経験になりました。
正直今の大きくなりすぎた乃木坂は、もちろん望んでいた成長を遂げて嬉しくもあり、反面、昔もようなこじんまりとしたイベントやライブがなくなり寂しくもあります。
これからは、すこし引いた立場と目線で乃木坂と46グループを応援していきたいと思います。
良く若い人にも話すのですが。。。
ヲタクをやっていて何かメリットがあるとしたら、それは仲間と出会うことだと言っています。もちろんそのきっかけを作ってくれた推しのメンバーには感謝しかないです。
4年半の中で世代を超えて本当に素晴らしい仲間たちと出会えました。
今はいろんな現場を見て感じるのですが、日本一素敵なヲタク仲間のいる現場だと断言できます。
しかし4年半の中で沢山の仲間が去って行ったことも事実です。女性アイドルグループの性ですが、ヲタクが流動していくのは仕方のないことです。
でも、去って行った仲間とも違う現場で会ったり、ヲタク以外の友人として今でも付き合える人たちがいることが、私の誇り、財産のようなものです。
乃木坂は新規ヲタクにはとてもやさしい現場です。
そして、生誕委員にもなりやすいし、そこで横のつながりを持つことは、ヲタク活動の楽しみを増幅させるものになると思います。
私は生誕祭の第一線を引退しますが、これからも、乃木坂の持つ日本一素敵な生誕祭文化が継承され、新しい人たちによってより成長していくことを、陰ながら、心から願っています。
最後に橋本奈々未さんには、感謝の言葉しかないです。
素敵な仲間との出会いは彼女がいなければ決して実現できませんでした。。。。