2020.09.27 ミッドナイトスワンをTOHOシネマズ新宿にて鑑賞。

(ネタバレあります。観ていない方は気を付けてね)

 

(つよぽんのサインの隣は慎吾のサインでしたよ)

 

何とか初動3日のうちに鑑賞せねば…しかし仕事と引っ越しが重なり…という状況の中で、ギリで3日目の夕方に観ることができた。新宿ということもあり、それなりに人が入っているだろうと思ってはいたが、前方の数席を除いてほぼ満員の館内に、この映画への期待とちょっとした感慨を覚えた。

 

映画はショーパブの楽屋のシーンから始まる。白鳥の衣装を纏った4人のLGBT(と思われる)ダンサーが、メイクをしながらおしゃべりをしている。振り向いて赤いダンスシューズの紐を結ぶ。そして出番がやってくる…。この間、映像は4人の顔を捉えない。後ろ姿、顔の一部、足先、そういうカットの連続だ。なのでつい、早くLGBTの草彅剛の顔を、その表情を見せろよ、と心の中で思ってしまった。予告で見ているはずなのに、である。それを認識した瞬間、ああこの映画はこの時点である意味成功しているのだと悟った。

 

これは役者の映画なんだ。

 

そして、映像が草彅剛の表情を捉えたとき、寂し気で、ある意味虚ろなそれだけで、この凪沙という人間が、彼女が置かれている状況がほぼ把握できた。映画のレビューを書くときに私はよく映画的言語という言葉を使うのだが、剛の表情はこの映画そのもののトーンであり言語であった。存在するだけで物語を語れる役者、それが剛の凄みだと再認識した。

 

表情がトーンと書いたが実は容姿も重要な要素であると思った。あまり容姿のことについて言いたくはないのだが、慎吾や吾郎さんみたいに空気のように女装してきた人とは違い、女性と見るにはいささか無理がある(笑)剛の顔がトランスジェンダーを演じる、それがこの物語の悲哀を増長していたと思うからだ。凪沙の恰好からして、彼女はおそらくキレイになりたいと思っている女性のはず。男女に関わらず誰にでもあるだろう自分の容姿に対するコンプレックス。認めたくないが、女子は特に可愛い子がもてはやされる傾向がある現状の日本において、凪沙はただでさえハンディを負っているのに辛いよな…と同じ女として同情してしまった。

 

さて、話について。この物語は、誰の立場で見るかで随分と受け取る印象が違うように思う。LGBT、母、子、友、大人、子供、先生、生徒…。私は昔踊っていたことがあって、どうしても一果の立場でモノを見がちであった。バレエはあんなに簡単に上手くならないぞとか、習う前からバレエ歩きしてんじゃんとか、凪沙にバレエを教えるシーンで剛じゃなきゃ一見してあそこまで踊れないぞとか、ツッコミどころは正直満載だった(笑) が、そういうことでなく、踊りに魅せられていく彼女と、親友・りんの物語に一番心が痛んだ。

 

凪沙もそうなのだが、生まれつきもった性や才能や容姿を克服することは容易いことではない。私も踊りが大好きだったが、練習してもしてもいかんせん下手くそで才能はなかったし、プロになった友人に憧れていたし、羨ましくもあった。私でさえそうなのであるから、りんにとっては如何ほどのものであったのだろう。気持ちが通じなかったりんの母が発した「この子から踊りをとったら何が残るのか」という言葉が、唯一りんの気持ちを理解している言葉というのは何と言う皮肉か。死ぬことを決めて踊る「アルレキナーダ」。夜中に親の目を盗んで恋人と会う女性のバリエーション。パントマイムが愛らしく、恋する女性を全身で表現している。しかし、恋人アレルキンは、その後女性の親の怒りにあい、窓から突き落とされて死ぬという話らしい。ここにも暗示があったのか…とうなってしまった。

 

白鳥の話が根底に流れるこの話は、凪沙がオデットで、一果が王子で、だから後追い自殺する…みたいに解釈されている方も多くいる。それはわかる。が、オデットを舞台で踊るバレリーナは、実はオディールも同時に踊る(最近は別の人が踊るのをよく見るが、昔は同一人物が演じていたことが多いように思う)。体力がいるのだ。しかもオディールのバリエーションでは32回転もするんだぞ。ちょっとやそっとの心持ちやメンタルでは踊れない。最後に凪沙が一果を残して逝くとき、正直、こんな子供に人の死を背負わせてどうするんだ、一果のためなら一人で死ねぐらいに思ってしまったが、一果にはオデットを踊るんでしょオディールを踊るんでしょ世界で踊るんでしょ、それならこれを乗り越えてって祈る気持ちで見ていた。だから一果は死んでいない…私はそう思っている。

 

最後に。LGBTのうんぬんということがこの映画を機にいろいろ話題になっていることは知っている。私はその論議に加わることができるほどの知識も経験ももちあわせないけれど、凪沙はたぶん昔の知識のまま、自分の世界の中で閉じこもっていたんだと思っている。なぜそうだったのかはわからない。が、たぶん、今でも歌舞伎町でもあのレベルがいっぱい存在しているのではないかな。もう少し周りに彼女に伊吹を吹き込む新しい存在が周りにいればな、彼女はきっともっと救われたはず…。それが本当に残念でならない。それでも、私には受け入れることしかできない。ただただ存在して否定せず受け入れられる人間になろうと思わされる映画だった。