2020.2.1「アルトゥロ・ウイの興隆」の前楽を神奈川芸術劇場(KAAT)で観劇。
本当にこの舞台を見るのを楽しみにしていたので、まずは人気チケットを当ててくれた友人に感謝したい。
「アルトゥロ・ウイの興隆」は、ベルトルト・ブレヒトが、ヒトラーが勢力を伸ばしていく姿をシカゴのギャングに置き換えて書いた戯曲で、それをジェームス・ブラウンのファンクにのせて表現するという意欲的な音楽劇だ。
当日、席に着くとほどなく開演のアナウンスが流れた。いよいよだと心待ちにしながらも客電が落ちるまでの間は…と友人と言葉を交わしていたのだが、気づくと続々と袖から演者が普通に歩いて出てくる。えっ、会場がまだざわついてるのに…とちょっと意表を突かれて慌てて体制を舞台に直すのとほぼ同時に、大阪モノレールが奏でる生のJBが会場を圧倒した。そしてようやく客電が落ちた。
舞台には赤い装置、赤にゴールドのネオンサイン、赤いスーツの演者…赤・赤・赤、たまに黒、そして赤。爆音と赤に呆気にとられていると、ボーカルの中田亮氏の”Welcome to KAAT~♪”というMCが入る。プロローグである。
冷静になってよく見ると、舞台上にはバンドメンバーだけではなくウイ以外の主要メンバーがほとんどあがっていた。そしてその全員がJBの曲に合わせて踊り、観客に手拍子を求め、盛り上がるよう煽り、我らがウイ様の登場を大声援をもって迎えるように促す。小気味よいファンクのリズムに、まるでライブ会場にいるかのようなノリノリの気分になる。この先繰り広げられるだろう少し怖い話を予測できていても、そうならざるを得ない最高の音楽であった。
そうやって舞台に迎え入れられたウイ=草彅剛は、正直、他を圧倒した。JBのリズムに身を任せているだけなのに、曲にあわせて動くそのしなやかな肉体は彼自身にしかもちあわせないものであった。周りと比べて体が大きいわけでもなく、一人違う衣装を身に着けて目立っているわけでもない。それなのに放たれる存在感や色気。これはやはり培ってきたものの差なのだろうか。白井さんがこの舞台に草彅剛をキャスティングしたいと思った気持ちが十二分にわかる。
舞台は、シカゴの野菜市場が世界恐慌の煽りを受けた停滞からどう抜け出すかという話から始まる。ギャングとしての存在に停滞感を抱いていたウイ(ヒトラー)は、八百屋業界のトラスト(市場の独占を狙う企業合同)と手を組んで、市議会のドンであるドッグズバロー(ドイツ大統領ヒンデンブルグ=古谷一行)の汚職をネタに、彼を恫喝し、市政にも口を出し勢力を拡大していく。しまいには隣町シセロ(オーストリア)の八百屋業界を併合する。そして舞台はここで終わる…。終わってしまうのだ。
確かにウイはカッコいい。魅了される。ついていきたくなる。けど彼らがのしあがったところで話が終わるとは思ってなかった。これでは救いがないでないか。勧善懲悪でなくていいから、ウイたちをやっつけられる何か正しいものを匂わせて終わってくれ~と懇願する気分になる。でも、観客にそう思わせることが白井さんの狙いでありブレヒトの狙いだったんだ、たぶん。
この戯曲がこう作られているのは、少しブレヒトに触れなければならないだろう。ブレヒトはドイツ人であり、政権を皮肉した戯曲を書く作家であった。そして共産主義者でもあった。そのため、ナチスによってドイツ市民権を奪われ、亡命した先の1941年にこの作品を書いている。
そう1941年なのだ。38年にオーストリア併合、39年第二次世界大戦勃発(=ポーランド侵攻)、40年ベルギー・オランダ制圧、フランス侵攻、41年バルカン半島制圧…。第二次大戦が終わるのには1944年を待たなければならない。なので、ブレヒトも大戦の結果を知らず書いているということだ。が、1941年時点で(正確な情報はわからなかったにしろ)ドイツが他国に侵攻していたのはわかっていたはずなのに、戯曲の中には書かれていない。つまりこの話でブレヒトが言いたかったことは、ヒトラーがやってきた極悪非道な行いというよりは、なぜヒトラーは第二次大戦を行うに至ったのか、彼らにそれをさせた大衆へのアイロニー(皮肉)なのではないか、そう思った。
この舞台の最後でシセロを制圧したウイが「まだまだ続くよ、この動きは。どんどん町を広げていって、全員にちょっと高めだけど新鮮で安定した野菜を供給するんだ。その町は、…ボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨーク!!!」(ニュアンスw)と叫ぶ。内陸のシカゴから東海岸の大都市ニューヨークを目指すその様が、大海をもたないドイツがフランス方面の大西洋を目指した様と重なる。おそらくシセロ併合という目標をひとつクリアしたウイは、野望が大きく膨れ上がり、熱狂した国民をうまくコントロールすればこれはいけるぞと思ったはずで、この成功体験が彼を世界征服に向かわせたんだ。ここでこの芽を摘むことさえできていれば、第二次世界大戦は始まっていなかったのに…。どこで自分たちは間違ったんだ、という自省もブレヒトにはあったのかもしれない。
そもそもヒトラーはコンプレックスの塊だったと聞く。行きたかった美大に落ち、軍では思うように昇進できず、ドイツ人(本当はオーストリア人)なのにゲルマンらしくない黒髪で、身長もあまり高くなく。肉体が大きくなくて劣等感も表現でき、劣等感とは裏腹な自己顕示欲をカリスマをもって表現できる役者はそうはいない。ちょっとぐらい歌がフラットしても剛の色気はありあまるほどだった。剛ファンには大変申し訳ないが、何十年と見続けてきた彼を初めてカッコいいと思った(もちろん、可愛いとか癒されるとかはしょっちゅう思っているよ)。
次回への期待も込めて改善してほしい点も。弁論で人を魅了したヒトラーだからこそ、もう少し滑舌よかったらなぁ。あと劣等感からカリスマへの変異は衣装がバージョンアップされていくのでわかるんだけども、そこの高低がもっとハッキリと観客にわかったらなぁと。舞台なので声を張り上げることが多いせいか、あるいは音楽に強弱があまりないせいか、高低がよくわからなかったんだよね。映像みたいに表情は見えないしね。これは再演のときにきっとブラッシュアップされることでしょう。
最後に。白井さんが今この時期にこの作品を上演した意味。面白いのにちょっと後味の悪い舞台を演出した意味。これこそが真の本題だと思うので、心して日々生きていかなければな、と。
自分の頭で考えて、調べて、答えを見出して、当事者になって、行動する。それだけできっと世の中は変わる。変えなければ。