私は日本社会そのものを受け入れていなかったので、

一種のヨソ者として現代社会を生きてきたのだと思う。

それを受け入れてくれる余裕が社会にあったのは、

ありがたいことで、

この年齢までなんだか「生きにくい、所を得ない」と思ってきたのは、

私が社会を拒否してきたからで、生きにくかったのは、

社会を受け入れていない自分のせいで、社会のせいでないと、

八十歳を超えて遅まきながらやっと気が付いた。

 

養老孟子

 

 

『ヒトの壁』をただ読んで、少しだけスッとした。

そう、僕はただ読んだだけで理解などしていないし、何か考えをめぐらせてたりもしていない。

正直にいうとここ数年読書はおろか、ひとからバイアスをかけられることをひどく避けてきた。

そういう人間にとってこの告白のような一文は、そうありたいと思わせる未来像です。

 

これを当然のように思われる方はおそらく正常で健常者なのでしょう。

ただしあなた方が同じ言葉を使うときそれは単なる拒絶です。

 

残念なことに僕はまだ養老先生の半分しか生きておらず、そのうえ頭も悪いので、いま生かされていることをありがたいなどとは思えません。また空気が支配する社会なんてのはくたばれぐらいにしか思いません。

それでも自分より若いコらがさっさと見切りをつけて自殺してゆくのをただの統計上の数字でしか見れないのは自分の事以上に辛いです。