月村了衛氏の新作小説『半暮刻』を読んだ。
以下、出版社の公式サイトよりあらすじを引用する。

「児童養護施設で育った元不良の翔太は先輩の誘いで「カタラ」という会員制バーの従業員になる。
ここは言葉巧みに女性を騙し惚れさせ、金を使わせて借金まみれにしたのち、風俗に落とすことが目的の半グレが経営する店だった。
〈マニュアル〉に沿って女たちを騙していく翔太に有名私大に通いながら〈学び〉のためにカタラで働く海斗が声をかける。
「俺たち一緒にやらないか……」。
二人の若者を通した日本社会の歪み、そして「本当の悪とは」を描く社会派小説。」

本作において、後半以降は翔太と海斗のカタラ卒業後の人生の物語だ。

スケープゴートの如く逮捕され、実刑を食らった挙句にヤクザにならざるを得なかった翔太。
大手広告代理店に入社し、一大プロジェクトを任されるエース社員となった海斗。

この二人を通じて日本社会の格差や分断、闇がこれでもかとばかりに描かれる。

 

 

海斗が任された一大プロジェクトとは、「東京ワールドシティ・フェスティバル」、通称「新都市博」の事務局だ。
架空のイベントだが、広告代理店の社員として海斗が行う汚職や贈収賄の顛末は、実際の東京オリンピック2020を彷彿とさせる。
また、社内ではパワハラ、セクハラも当たり前で、その結果社員が自殺する様子は電通で実際に起こった事件も思い起こさせる。

1964年の東京オリンピックを題材とした『悪の五輪』と同様、新都市博を巡る汚職は酷いものだ。
しかし、海斗は犯罪を犯罪とも思っていないばかりか、むしろ肯定している。
「学び」「向上心」「自己研鑽」といった美名の下に。

かつての友であった翔太は、本作の最後で海斗のことを断罪する。
海斗がしていることは「邪悪」である、と。
翔太は自分の家族を護ることで、海斗と共に重ねた自身の罪と向き合い続ける、と。

そんな翔太に対し、海斗はうろたえるでも憤るでもなく、「だからあいつは中卒の底辺なのだ」と心の中で一蹴する。

この海斗に、図らずも共感してしまった。
もちろん、海斗が行った鬼畜のような所業に対してではない。
かつての友を蔑むことでしか留飲を下げることができない、その心情に対してだ。

というのもここ最近、筆者自身、かつての友人との価値観の違いを感じることが多くあるのだ。
中学時代からの付き合いの友人と久々に飲んだ際にはまったく思いもよらぬことが原因で仲違いし、互いを尊敬していたはずの元同僚と飲めば数年前と中身の変わらない愚痴を聞かされて辟易する、といった具合だ。
どれだけ会っていない期間があろうとも、会った瞬間に昔の関係性に戻ることができたはずだったのだが。

仕方ないことだと思う。
社会人になって10年以上、違う環境に身を置き続けているのだ。
培われる価値観は当然違う。
元同僚は社会人になってからの付き合いだが、同じ会社で働き続けている彼と、幸運にも転職によってキャリアアップを繰り返すことができている筆者との乖離もまた当然だ。

なにも筆者だけが成長していると思っている訳ではない。
友人達もそれぞれの場で頑張っているのだろうし、それぞれの成長をしているのだろう。

ただ、長く付き合ってきた友人、仕事について熱く語り合った元同僚と話が合わなくなっていくのは、堪えがたいほど寂しいものだ。
この寂しさに堪える方法を筆者は一つしか知らない。
彼等とは「もう住む世界が違う」という言葉を自分に言い聞かせることだ。
以前であれば唾棄するほど嫌いであった言葉を口にしてしまう、しかも最も親しかった友に対してそんなことを思ってしまう自分自身への失望という、別の重荷を背負うことにはなるのだが。

『半暮刻』における海斗の心情も同じだったのではないだろうか。
その証拠というべきか、海斗は翔太の家庭の様子を一瞬想像している。
台所で湯気を上げる鍋。ベビーベッドで眠る愛娘。
どちらも、汚職に血道を上げる海斗には手に入れることのできなかった幸福だ。
そんな幸福を掴んだ翔太を海斗は心の底で妬んでおり、その嫉妬心を収めるには翔太を蔑むしかなかったのだ。

欺す衆生』の主人公の詐欺師もまた、自身の社会的ランクが上がったことで、自らを詐欺の世界に導いた「盟友」のような相手のことを完全に忘れてしまう。
他人を、自身を騙し続けた人間の末路だ。
『欺す衆生』が出版されたのは2019年で、読んだのもその頃だと思うが、当時は感じなかった共感を海斗に対して感じるのは、自分が年を取ったということか。
大人の階段を登るというのは、どうやら楽しいことばかりではないらしい。