今年の大会で、背教者をきっぱりと、話を最初から全く聞かずに、避けるように言われています。
では、その背教者とは誰でしょうか。背教者が誰かも知らずに、避けることはできません。
なんとなくですが、エホバの証人にとって都合の悪いことをいう人全てを指しているような印象を信者に与え、都合の悪いことを聞くとエホバへの裏切りであるかのように訴えています。
背教者は誰か、ということをきちんと知る上で、「背教」という言葉は、2回出てきます。ここから調べてみましょう。
使徒21:21とテサロニケ第二2:3です。
まずは、使徒21:21から
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しかし,その人たちは,あなたについてこういううわさを聞いています。異国人の間にいるユダヤ人全てにモーセからの背教を説き,子供に割礼を施すことも昔からの慣行に従うこともしないよう告げている,といううわさです。
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この聖句は、パウロのことを背教者とうわさしていた人たちがいた、ということです。「背教」という言葉を使っていますが、モーセの律法を引き続き守っている、ユダヤ人のクリスチャンが、モーセの律法を守っていないクリスチャンに対して、「モーセからの背教」を説いた、と言っていました。
逆にいうと、クリスチャン(モーセの律法に従う必要がない)にとっては、これは、背教ではなく、むしろ正しい、真理だということです。あくまでも、「モーセからの背教」、モーセの律法に従っていないということ。なので、この聖句は、「背教者」が誰か、という点では、間違って「背教」であると適用されていた例です。パウロが背教者ではないのは、皆さんも同意されるでしょう。
この聖句からわかるように、パウロのように、「背教」と思われる人々(実際には正しかった)、というだけで、すぐに、避けたりしていない、むしろ、背教ではなく、正しいかった、という場合もあるといことです。そのうわさが間違っていたのです。むしろ、聖書から、何が正しいかを証明する必要があったのです。
「背教者」というレッテルを貼って、何も聞かずに、ただ避けるということはしていません。
背教は、「逆らった教え」、ではあるものの、何に対しての「背教」なのか、よく考える必要がありますね。
つまり、それまでの慣行、伝統、しきたりに逆らった教えであっても、それは、それまでの慣行からの背教であって、間違っているわけではない場合もあるといことです。
もしあなたが一世紀のユダヤ人のクリスチャンで、パウロが背教者だといううわさが流れていたとしましょう。
あなたは、パウロを、何も聞かずに、背教者といううわさがある、という理由だけで、すぐに避けますか。サタンよ、離れされ!と言いますか。
この聖句は、ギリシャ語聖書中で2度しかない背教という言葉の一つ目です。もし背教者を避けるようにということを強調するのであれば、この聖句も深掘りしてもいいのかなと思いますが、なぜかこの聖句に関して、あまり資料がありません。おそらく、統治体n強調したい点とは違う点が際立ってしまうからではないかと思います。
長いので、ギリシャ語聖書のもう一つの「背教」の出例のテサロニケ第二2:3の聖句は、次回にしたいと思います。