エホバの証人の体罰問題、事実上の児童虐待問題に関してですが、ときどき、
「あの時代は、おしりをたたいたりするのは、普通だった。カツオだって、のび太君だって、おしりをたたかれている場面がテレビで放送されていた。」
という声を聴きます。
それでいいのでしょうか。
それは単なるいいわけに過ぎません。理由は、主に三つあります。
①エホバの証人の体罰は、度を越えていた。
エホバの証人の間で、あたかも「すばらしい、模範的な」こととして、体罰が語り継がれていました。あたかも、たたけば、たたくほど良いという感じでした。
そして、その内容は、
ものを使ってたたく。(ホース、布団たたき、竹の物差し、をわったものなど、)
あざができて、椅子にすわったり、お風呂に入れれなくなるまで、おしりをたたく。
中学生にもなる女の子のおしりを、とげ付きの布団たたきで、血が出るまでおしりをたたく。
上記はネットで聞いたのではなく、わたしが個人的に知る範囲でのことです。具体的な詳細を忘れている事例は書けないので、実際にはもっとありました。
これほどの体罰は、その当時であったとしても、度を越したものでした。しかし、なぜかエホバの証人の組織では、それがあたかも「すばらしい」こと、「励まされる」こととして語られていたのです。
②組織的な関与
エホバの証人は、組織的な関与をみとめていません。エホバの証人の組織として、それを推奨したことはない、あくまで個々のエホバの証人の判断、責任において、いわば勝手にやったことだとしています。
しかし、巡回監督から、長老から、司会者から、会衆の先輩の姉妹たちから、言われたり、圧力をかけられたりしていました。司会者から竹の物差しを縦に半分にわって、渡され、たたくようにと言われた話を聞いたことがあります。
エホバの証人は、出版物の中に、そうするようにという具体的な指示や命令がないということを根拠に、組織的な関与はないと主張しているようですが、それはいわゆるコンプライアンス問題と同じです。
例えば、パワハラを禁止する明確な規定のある会社は、絶対的にパワハラはないのでしょうか。必ずしもそうではありません。規定があったとしても、実際には、上司からのパワハラが常習的に行われていることはよくあります。そして、それを上層部がしりながら、それを止めないとすれば、それは組織に責任があります。また、実際にはパワハラを助長するかのような発言や、人事、取り決め、称賛などがあれば、それは悪意のあるものとして、その組織はさらに責任が重くなります。
エホバの証人は、懲らしめが、巡回監督や長老たちによって推奨され、また大会などでも扱われたりしました。司会者や長老たちからの圧力は日常茶飯事でした。もし、それらすべてを個人の責任とするのであれば、悪意を感じます。
昔、戸塚ヨットスクールの問題がありましたね。私はあまりよく知らないのですが、単にある先生が感情的になってなぐったのではなく、組織的な関与があったから問題になったのだと思います。エホバの証人も、単に、一部の個人が感情的になってしまったのなら、仕方のないことかもしれませんが、組織機的な関与があったとすれば、その当時であったとしても、非常に悪意のある重い罪だと思います。実際、度の会衆にも、こどもを徹底的に体罰すべきという雰囲気がありましたが、日本支部も、巡回監督もそれを止めることはしませんでした。
③時代は関係ない。
70年代、80年代(あるいはそれ以前も)は、確かにおしりをたたくことが、一般的な子供へのしつけのようにとらえられた節もあります。
では、エホバの証人も、それでいいのでしょうか。
「ふてほど」にもでてきましたが、時代によって大衆に受け入れられていたものはあります。しかし、仮に、昔、長老たちが、あいさつのように若い姉妹たちのおしりをさわっていたとしましょう。それは、その当時よくあったことだから、しょうがないで済まされるでしょうか。もし昔の地域大会の劇で一部お色気シーンがあったとしても、「あー、あれはそういう時代だったんだよね」で済まされるでしょうか。確かに、一般の会社では、実際に、昔はそのような雰囲気もあったのかもしれませんが、人に道徳を教えるべき宗教がそのようなことをしていいのでしょうか。エホバの証人の間でも、子供をたたくことは、どの時代であっても、悪いことなのです。
エホバの証人は、性の問題に対しては時代に逆行して、極端に厳しい基準を勧めてきましたし、その当時男は毎日残業が当たり前の時代に、週二回週日の集会に行くように要求してきました。そうした基準は、時代にかかわらず普遍的なものなのに、なぜ体罰に関しては、ああいう時代だったと言えるのでしょうか。
しかも、実際には、①、②でも書きましたが、その時代に受け入れられていた体罰よりもさらに厳しい体罰を勧めていたのです。
どんな時代であっても、人は行き過ぎてしまう傾向があり、10年、20年経ってみて「あれは行き過ぎだった」ことに気づきます。しかし、人に道徳を教えるべき宗教は、どんな時代であっても、その時代の行き過ぎを止めてくれる存在であるべきではないでしょうか。
「時宜にかなった」食物を分配してくれるべき忠実で思慮深い奴隷は、本当にその時代にあった「時宜にかなった」もの与えてくれていたんでしょうか。あの時代は、体罰は普通だったから、エホバの証人もそれで問題ないと本当に言えるでしょうか。
みなさんはどう思いますか。