この件に関して、もう一つ言いたいことがあります。(本当はもっとありますが。)
これまで、エホバの証人は、というより統治体は、出版物を通して、「排斥はエホバの愛の取り決め」としてきました。どんなに辛いとしても、エホバの愛の取り決めに従うように進めてきました。このシリーズの1、2で述べたように、ヨハネ第二10、11を排斥者、断絶者すべてに適用し、挨拶するなら、自分自身も排斥されるかも、とある意味脅しをかけてきました。
以前の記事には、このようにありました。
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家族は,排斥の決定を尊重するなら,会衆と排斥された人に対する愛を示すことができます。フリアンはこう説明しています。「あの子がわたしの息子であることに変わりはありませんでしたが,息子の生き方ゆえに,わたしと息子との間には壁がありました」。
会衆のすべての成員は,排斥された人との接触や会話を避けることによって,原則に基づく愛を示せます。(コリ一 5:11。ヨハ二 10,11)そうするなら,エホバが長老たちを通して与えた懲らしめの効果を高めることになります。会衆の成員は,排斥された人の家族にいっそう愛を示し,支えを与えることができます。家族はかなりの痛手を被るので,自分たちも会衆から遠ざけられていると思わせないようにする必要があります。―ロマ 12:13,15。
塔15 4/15 29–31ページ排斥が愛ある取り決めと言えるのはなぜか
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排斥は愛であると、教え込んできたのです。
さらに、別の記事には、
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一方,排斥された親族が同居家族でない場合があります。家族としての必要な事柄を顧みるために限られた範囲で接しなければならないことがまれにあるとしても,そうした接触は最小限にとどめるべきです。忠節なクリスチャンである家族の成員は,同居していない排斥された親族とかかわりを持つ口実を探そうとはしません。むしろ,エホバとその組織に対する忠節のゆえに,排斥という聖書的な取り決めを擁護します。そうした忠節な態度は,悪行者にとっての最善を願ってのものであり,受けた懲らしめから悪行者が益を得る助けになるでしょう。c ―ヘブライ 12:11。
愛 207ページ–208ページ 3節排斥された人にどう対応すべきか
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同居していない家族との接触は最小限レベルだけ、と教えて込まれてきました。また、実際ビデオを通して、電話がかかってきても無視したりしていることを模範的としてきました。それが愛なのです、と教えてきました。涙を呑み込み、それが愛なんだと自分を一生懸命説得していた人もいたことでしょう。
では、今度は、排斥者と挨拶しても良い、集会に誘っても良い、となった今、今までの取り決めは、愛の取り決めだったのでしょうか。組織が行きすぎていたのでしょうか。それとも、エホバの基準が変わったのでしょうか。それとも、JWがよく使う手法のように、「一部の行きすぎた仲間が勝手にやった」とでもいうのでしょうか。これまで、排斥者と挨拶や集会に誘ったりして、長老が注意したこともあるかも知れません。その長老は謝るのでしょうか。今後もまた、この基準を帰る可能性はあるのでしょうか。また、排斥された人が立ち返るためと言っていますが、こんな感じで対応を変えたとしたら、本当に立ち返りたいと思うでしょうか。逆に傷つくことはないでしょうか。統治体は、なぜ今になって解釈を変更したのでしょうか。なんで後5年前、10年前に気づいていなかったのでしょうか。(ちなみにヨハネ第二10、11の適用については私は以前から気づいていましたし、多分大勢の背教者も気づいていました。)もっと早くやっていることが愛の取り決めではないのでしょうか。
いろいろと疑問は残ります。