前回からの続きです。

 

排斥者と交流すると自分も排斥されるかもしれないという聖書的根拠、ヨハネ第二10,11がなくなるはず。そうすると、排斥者と交わっても排斥にはならないことになるのではないか。という話でした。

 

 

しかも、排斥者を集会にさそってもよくなりました。この変更に関しても、聖書的な根拠は全く示されていません

 

以前の記事では、こうありました。

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以前のように(今は排斥された)夫と共に聖書について話し合ったり,祈りを共にしたりして,排斥された夫と霊的な交友を持つことはできません

塔83 4/1 30–31ページ 読者からの質問

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また、長老の教科書の本の12章17節(1)をみるとこうあります。

 

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(1) 排斥された人や断絶した人と不必要に交流すること: 親族以外の排斥された人や断絶した人と故意に不必要な交流を続けていて,繰り返し助言されてもそうした交流をやめない場合は,審理処置が妥当です。 (マタ 18:17後半。 コリ一 5:11, 13。 ヨハ二 10,11。 愛簡 39‐40)

会衆の伝道者が,排斥されたり断絶したりした同居していない親族と不必要に交流していることが知られている場合,長老たちは,聖書を使って助言し,筋道立てて話し合うべきです。 「神にずっと愛されるために」 の本の241ページの情報を一緒に復習してください。 この点で排斥の決定の目的を踏みにじっていることが明らかであり,助言に応じないことも明らかであれば,会衆で模範的な人にしか与えられない特別な務めを果たす資格はありません。 ただし,宗教的な交流をやめようとしなかったり,排斥の決定に対する批判を公然と続けていたりするのでない限り,審理処置は必要ありません。

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排斥者が家族であったとしても、「霊的な交流」をしているなら、排斥になるかもしれないのです。

 

しかし、集会に誘ってもよくなりました。集会に誘うっていうことは、「集会にいこうよ。集会では、こんなテーマについて話し合うよ。きっと励まされるよ。」「イエスが贖いの犠牲になってくれたんだから、記念式に行こうよ。」「宣べ伝える方法について学べるよ。」「終わりは近いよ。」...

これって霊的な会話ではないですか。霊的な交流になりませんか


以前は、集会に誘ってはいけない理由は、霊的な交流を持ってはいけないから、挨拶すらしてはいけないから。

では、今は、集会に誘って、結果的に霊的な会話をしても良くなった理由はなんですか。今も霊的な交流をしてはいけないんですか。霊的な交流って一体なんですか。


さらなる調整に関して、必要ではないですか。ちなみに、長老の教科書は、毎年、4月と10月に改定されるそうです。今月にもしかしたらこの部分も改定されるのでしょうか。


さらに言うと、、、、長すぎたので次回に続きます。