2024年8月号のものみの塔の研究記事にあるように、ヨハネ第二10,11の聖句の適用が変わりました。(というか、元に戻っただけなんですが。それに、以前から背教者はそのように言っていたことなんですが。)

 

 

しかし、この聖句の適用が変わると、さらに別の点が変わってくるはずですが、そのてんについては、何も触れられていません。

 

 

 

長老の教科書と呼ばれている本があります。この本の12章17節(1)には以下のような説明があります。

 

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(1) 排斥された人や断絶した人と不必要に交流すること: 親族以外の排斥された人や断絶した人と故意に不必要な交流を続けていて,繰り返し助言されてもそうした交流をやめない場合は,審理処置が妥当です。 (マタ 18:17後半。 コリ一 5:11, 13。 ヨハ二 10,11。 愛簡 39‐40)

会衆の伝道者が,排斥されたり断絶したりした同居していない親族と不必要に交流していることが知られている場合,長老たちは,聖書を使って助言し,筋道立てて話し合うべきです。 「神にずっと愛されるために」 の本の241ページの情報を一緒に復習してください。 この点で排斥の決定の目的を踏みにじっていることが明らかであり,助言に応じないことも明らかであれば,会衆で模範的な人にしか与えられない特別な務めを果たす資格はありません。 ただし,宗教的な交流をやめようとしなかったり,排斥の決定に対する批判を公然と続けていたりするのでない限り,審理処置は必要ありません。

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要約すると、親戚以外の人で排斥者と故意に交流をし続けていると、それ自体が「排斥」(新しい言い方では、「会衆から除かれる」)される根拠になる。

また、親族で排斥者との交流している場合、助言されたり、模範的でなくなるという措置がある。しかし、「宗教的な交流を辞めようとしなかったり」とかでない限り、排斥の根拠にはならない。

 

聖書的根拠は以下の3つ。

 

マタイ18:17ーーーーーーーー

17 もし彼が,その人たちが話すことを聞かない*なら,会衆に話しなさい。もし会衆が告げることも聞かない*なら,彼を,あなたにとって,異国の人+や徴税人のような者としなさい+

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これは、かならずしも、排斥者と口をきいちゃいけないといっているわけではなく、口をきいたら、その人も排斥されるというものではありませんでした

 

二つ目は、コリント第一5:11,13ーーーーーーーーー

兄弟と呼ばれる人で,性的に不道徳な人,貪欲な人+,偶像を崇拝する人,ののしる人,酩酊する人+,脅し取る人+がいれば,そのような人とは交友するのをやめなさい+。一緒に食事をしてもなりません。 12 私は外部の人たちを裁く立場にあるでしょうか。皆さんは内部の人たちを裁くのであり+13 神が外部の人たちを裁くのではありませんか+。「皆さんの中から悪い人を除きなさい+」。 

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この聖句は、わたしも疑問があった聖句。「兄弟と呼ばれる人で,性的に不道徳な人」つまり、排斥された人は、兄弟とは呼ばれなくなり、世の人と同じなるわけです。しかも、13節の最後にあるように、会衆の中から「除かれる」(今回の新しい見解で、「排斥」という言い方をせず、会衆から「除かれる」という言い方に変わりました。)ことになるのであれば、「外部の人」になるのではないでしょうか。この聖句の文脈を見るとわかるように、外部の人とは、通常の関係をもってよいとあります。すいません、この聖句に関しては言いたいことがありますが、今回は見解が変わったわけではないので、また別の機会に。

でも、この聖句では、挨拶をしてはいけないとはかかれていません。また、交友したり、一緒に食事をしたりするなら、排斥される、ともかかれていません

 

 

今まで、排斥者と交わると自分も排斥になり得る、唯一の聖書的根拠が3つ目の聖句。ヨハネ第二10,11

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キリストの教えに従わない*人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし+,あいさつの言葉を掛けてもなりません。 11 あいさつの言葉を掛けるなら,その人の悪い行いに加わることになります。

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これまでの見解からすると、今までは、排斥者、断絶者すべてに「あいさつの言葉」をかけてはいけなかったのです。排斥者とあいさつすると、「その人の悪い行いに加わる」ことになり、自分も排斥されるとなってきました。つまり、排斥者や断絶者にあいさつをすると、同じ行いに加わることになり、排斥されるかもしれないという恐怖があったのです。

 

しかし、今度は、背教者にのみ適用となりました。

つまり、排斥者、断絶者とあいさつしても、「その悪い行いに加わる」わけではありません。審理措置(排斥されるかもしれない審理)を取る必要はなくなるはずです。排斥者との交流が排斥になりうるという、今までの唯一の聖書的な根拠がなくなるわけです。

 

今後この部分は変更されていくのでしょうか。

 

もし、ヨハネ第二10,11が上記の排斥の根拠の聖句から抜けるとすると、排斥者と交わること自体が、排斥の根拠になるといえなくなるのではないでしょうか。

 

しかも、、、、

長くなったので次に書きます。