エホバの証人組織内にこころの病気の人が多いのはなぜか、このテーマでシリーズとして書いています。今回分析するのは、罪悪感です。自分を責めてしまう傾向です。
確かに、自分が悪いことをしたときに、自分を責めることは、良いことですが、不必要な、人の自尊心をむしばむ罪悪感もあります。
 
(私の言いたいことを一番最後に書いたので、時間のない方は最後だけでも見てください。)
 
 
何も悪いことをしていないのに、周りが嫌な顔していた、
あるいは、
不完全な人間として、よくしてしまうミスなのに、
あるいは、
以前にしてしまったことをずっとくよくよと、
 
悩んで、
自分を責め続けたり、
自分はだめな人間だ、
誰も愛してくれない、
と落ち込んだりしていませんか。

 

さらに、この間違った罪悪感を利用して、人を動かすこともできるのです。

 

例えば、あなたがとても繊細な主婦だとして、夫が家に帰るたびに、棚の誇りを指でチェックして、ここが汚いとか、食事の味が悪いとか、買い物忘れとか、常に、ミスを一つ一つ指摘して、夫は嫌な顔をして、「君はこんなこともできないんだね。」と毎日毎日言うとしましょう。逆にできていることは一つも触れません。いわゆるモラハラですね。自尊心の強い人は、言い返すことができるでしょう。でも、繊細な人は、知らず知らずに影響をうけ、自分はだめな人間だと思うようになり、自分の意見を言えなくなり、夫の言いなりになったり、自分の罪悪感を晴らすために、何か別のことをするかもしれません。死にたいと思うかもしれません。罪償いのために夫の要求には逆らえなくなるかもしれません。
 

どのように悪い罪悪感を植え付けるか

高すぎる基準を設定する、
例えば、マスターベーション。聖書中では、禁じるとは書かれていません。(オナニーの語源のオナンの人の例は、妊娠をわざとさせようとしなかっただけ。)わたしは、それ自体を推奨したり、全く何も問題ないとは言いませんが、エホバの証人の出版物によれば、それがいけないこととして書かれています。あたかも、それを一度でもそれをすると罪悪感を抱くかのように、持って行っているのです。
 
ポルノを見ると、援助奉仕者や長老たちは、長老たちに報告しなくてはいけないというものもあります。姉妹たちも報告するように勧められています。長老たちに報告すると、こういうことを聞かれます。どんなものをみましたか、ハードコアですか、ソフトコアですか、自慰行為もしましたか、何回しましたか などときかれます。恥ずかしいですよね。罪悪感そのものです。
 
服装についても同じです。エホバの証人は、身づくろいに関して規則はないと言っていますが、実際には、見えない規則があります。たとえば、挿絵の写真として、悪い例として描かれているものなどを利用して、これはいけないと伝えます。いい例が、兄弟たちのスリムなズボンです。また、胸元が開いている、膝がみえるような服装などは、姉妹たちの間で、嫌な目で見られます。時々、長老たちから言いづらいから、姉妹たちにその姉妹を注意するよう指示することもあります。規則はないはずなのに、みんなから白い目で見られ、罪悪感を抱きます。
 
あなたが頭痛で集会を休むとしましょう。それは、聖書的に見て決して悪いことではありません。でも、あなたが頭痛も血なら、けっこうよくあるかもしれません。休むたびに連絡が来て、どうしたのと聞かれ、集会を休んだ理由を話します。みんなわたしがいけないことをしていると思っていると感じます。そして、知らず知らずに自分も悪いことをしていると感じるようになり、罪悪感を抱くのです。本来なら集会を休んで、ゆっくりと休養を取るべきなのに、罪悪感にさいなまれるのです。
 
常に周りの人の評価があなたの価値と思わせる
「つまずかせてはいけない」という言葉で、誰か一人でも嫌な顔をする人がいれば、あなたがいけなかった、ということになります。学校や職場の人が、エホバの証人のことを悪く言うと、それは、あなたの行状が悪かったということになります。実際には、いろいろな人がいてしょうがないのに。また、あなたの未信者の家族がエホバの証人のことを悪く言ったとすると、それは、あたなの行状がよくなかった、となります。
また、会衆内でも、自分が良いと思ってきている服装でも、他の姉妹たちや、長老たちの判断で、助言されることがあります。その内容は、あなたが「ふしだら」「貞潔でない」という言葉を使います。
全ての人を喜ばせることはできないにもかかわらず、誰か一人でも嫌な顔をすると、自分が悪かったんだという罪悪感
を植え付けているのです。
 
常に周りから嫌われて育った背景
誕生日はだめ、国歌校歌はだめ、ひなまつり、たなばた、クリスマスだめ、輸血はだめ、献血はだめ。こういうのを周りの人に言うときに非常にはずかしくていいづらかったり、周りから変な人と見られているとわかります。実際に、周りに迷惑をかけることもあります。知らないうちに、自分ははずかしい存在だという考えにとらわれ、できるだけ自分の身分を隠そうとします。結果として、自分は恥ずかしい存在だと認識し、罪悪感を抱きます。
 
他の人の成功と常に比較する
精神的に人を追い込む一つの方法は、周りと比較することです。しかし、大会や、集会、またビデオでの経験においては、いつも良い例が扱われます。また、牧羊訪問などでも、そうした事例を出して、人をもっと働くよう励まします。こんなにつらい状況でも、開拓奉仕している人がいる、アフリカでは、何時間もかけて歩いて集会に行っている、あの人は月に再訪問100件している、あの人は研究をつねに10件持っている、、、、つまり、どんなに頑張っても、あなたはこの人とくらべてまだできていないという評価になりがちなのです。特に、繊細な人は、自分でそう考えがちです。
 
さらに、よくあるのが、エホバの祝福ですね、という言葉。誰かがいい兄弟、いい姉妹と結婚すると、「エホバの祝福ですね」といわれる。誰かが、組織内で特権をもらうと、「エホバの祝福ですね。」という。誰かが、寿司をたべたいと祈っていたら、会衆の姉妹が寿司を持ってきてくれたというと、「エホバの祝福ですね」という。誰かの病気が治ると、「エホバの祝福ですね」という。望んでいたことがかなうと、「エホバの祝福ですね」という。まあ、そんなにしょっちゅう起きることではないので、偶然というか、いわゆるラッキーなだけで(JWはラッキーと言ってはいけないが)、そうした経験をしていない人が悪いわけではない。でも、あまりにもそういう話を聞いていると、例えば、自分は、特権をもらえなかった、自分は結婚できなかった、自分は病気なったー>エホバの祝福がない、=>自分は頑張っていない、=>エホバからも愛されていない=>罪悪感 となるのです。
 
組織は罪悪感を持っている人が好き
この点は、あまり触れられませんが、実際そうだと思います。集会を休みがちの人、あるいは、服装が周りとちょっと違う人、開拓奉仕をせず全時間の仕事をしている人が、集会にきて、全く問題ないかのように、周りの人と楽しく話していたりすると、まわりから高慢だと思われます。また、実際牧羊訪問などでは、注意されます。でも、「集会休みがちで申し訳ない」というような態度を示すと、大丈夫ですよと慰められる。おかしいですよね。知らず知らずに、自分は罪悪感を持っているほうがみんなから受け入れると認識しているのです。
 
極端な言葉遣い
エホバの証人は、「死に至る」「滅びに至る」「重大な悪行」「永遠の滅び」「裁き」と言った言葉好きです。知らない間に、なんかちょっとしたことでも、重大な気がしてしまうのです。
 

間違った罪悪感の危険

 
キリスト教は確かに、「原罪」という考えがりますが、不必要な罪悪感をもつように言っているわけではありません。ヨナやペテロなどのように、積極的な人がたくさん出てきます。
 
非常に長い期間、特に幼少期をへて形成される
とくにJW2世は、赤ちゃんの時から親から罪悪感を植え付けられています。集会中寝ていたり、ねむくて駄々をこねると、おしりをたたかれ、自尊心をなくさせ、あなたが間違いだと認めさせます。
そして、何十年もの間、上に述べたような考えを毎日毎日勉強させれられるのです。
 
間違った罪悪感が自分にあることをしらない
自分にそんな罪悪感があると知らないのです。まさに、モラハラの例でいじめられている人が、自分がいじめられていることに気づかず、自分を責めている人のようです。
 
行動へとうながす
あなたが開拓奉仕をしている理由は何ですか。実は、罪悪感ではないですか。あなたが、多少あたまが痛くても集会行く理由はなんですか。実は、罪悪感ではないですか。知らないうちに、この罪悪感によって動かされているのです。エホバは愛の神で、罪悪感によって人を動かそうとすることはないはずです。
 
エホバの証人2世に声を大にして言いたいことがあります。元の人も、現役さんたちも。
知らず知らずに形成された間違った罪悪感を、知ってください!!!!
 

間違った罪悪感は危険です。不幸になるだけでなく、年を取って人生を振り返ったときに、満足できないでしょう。さらに、「死にたい」という気持ちにまでさせかねません。

 
 
ちょっとながくなりましたが、今日はここまで、
次回は、エホバの証人内に心の病気が多いのはなぜか、「自分をださせない仲間の圧力」についてです。