もうすでにご覧になられたと思いますが、エホバの証人の2024統治体の話(2)すごい変化でしたね。
排斥者への対応がずいぶん変わっていました。
ポイントとしては、
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審理委員会で、1回だけで裁くのではなく、複数回会ったりして、その人を悔い改めに導くようにする。
排斥の場合でも、3か月ごとかに会う約束をする。もしかしたらその時点で復帰するかもしれない。
長い間排斥になっていた場合、復帰する間から、その人と研究することができる。
未成年の場合、まずは2人の長老が(つまり審理委員会ではなく)親とともにあって、おやから話を聞き、親がどのようにその子を援助できるか、を話し合う。
もし未成年者当人が悪行をつづけるなら、審理委員会をおやもふくめて一緒に行う。
周りの人は、排斥者と簡単な挨拶をしてもよい。
集会にくるようすすめてもよい。
背教者や悪行を推進するような人とは、挨拶はしない。
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これに関しても、いろいろと言いたいことがありすぎる。だから、今回はごく一部だけにしておくけど。
聖句の適用で、「文脈をよく見ると、」これは、排斥者すべてではなく、背教者にあてはまることがわかりました、とかいっている。
そんなの知ってたよ!!!
だって長老たちは、審理委員会開く前に、本当に徹底的に勉強して、聖句の意味とか、文脈とかよーく読んでいるんですよ!
文脈なんて、新しい見解じゃないし、そんなの、100年くらい前にわかってたことじゃないの?!
それにね、正直なところ、「排斥」って、他人の人生をつぶしかねないんですよ。その人がうまく帰ってくればいいけど、自殺する人もいるかもしれない。その人の家族は分裂するかもしれないんですよ。すっごい重大なことですよ。それをあたかも新しい光のように言っているけど、そもそも文脈ぐらいずっと前からわかってたことでしょ。
これは、うそじゃなくて本当の話で、別に自慢するわけじゃないですけど、ヨハネ第二10,11節、の「あいさつの言葉をかけてはならない」というのは、反キリストつまり背教者のことをいっているのに、なんで排斥者すべてに当てはめるんだろう、ってかなり前から思っていました。って、僕のほうが統治体より先を言っていたってこと?っていうか、恐らく、僕だけじゃなくてかなり大勢の人たちがそんなの知ってたけどっておもっていると思うけど。
つまり、聖書的な根拠が初めからなかったのに、そういう規則をつくっていたってこと?他人の人生をつぶすかもしれないのに、なんで今頃?
それに、未成年への対応が変わったのは、なんで? やっぱり聖書的な根拠がなかったから?今までやってたのは、単純に間違いだったってこと?
どうして今頃?なんで今なの?
どうしても、ノルウェーの裁判での敗訴、そして、日本での「宗教虐待」の批判を鑑みてうまく切り抜けようとして、今考え出したとしか思えない。