3月に入って悪天候が続いていたが昨日の午後くらいから晴れ間が見えるようになった。この時期に珍しく濃い霧の日が2日続いた。100メートル先の信号や車も見えにくいほどだった。「霧が丘」という地名もあるくらい足立山麓の霧は以前から有名である。
祖母のエピソードを書いたブログ記事について、予想以上に多くのアクセスがあった。やはり、もう会えない人のことは、記憶が新しいうちに何処かに記録して、時々思い出してあげることが供養になるのではないかと思う。
人の記憶とは不思議なもので、一つ思い出すと芋づる式に様々な記憶が蘇ってくるものだ。もう少し祖母との思い出について綴ってみたい。
「祖母と学んだ漢字」
私の自宅からバス停までは大人の足で5~6分ほどだった。私は、幼稚園に入る前の物心ついた頃からバスや電車などの乗り物を見るのが大好きだった。祖母は時々、私をバス停まで連れて行きバスを見せてくれた。祖母とバス停のベンチに腰掛け、たまに来るバスを待っていた。祖母は私にバスの行く先(漢字)の読み方を教え始めた。祖母と病院へ行ったり街に出たりすると、普段とは違う行く先のバスを見かけた。「ばあちゃん!あれなんて読むん?」と、私もその都度祖母に聞くようになった。いつの間にかバスの行く先の漢字が全部読めるようになった。「町上津役(まちこうじゃく)」や「戸畑渡場(とばたわたしば)」など難しい読み方の漢字も読めた。私が幼稚園に入ったくらいから、祖母は私に漢字の書き方を教え始めた。今思えば、これらが私の国語の勉強の基礎になっている。
「明治100年の財布」
私が小学4年の1968年の10月、「明治100年記念式典」という祝典が開催された。明治改元(1868年)100年を記念したもので、地元では小倉城を中心に「お城祭り」が開催され屋台や出店で街中が賑わった。このお祭りのときに私は祖母にあるお願いをした。「ばあちゃん!一緒にお祭りに行って財布を買ってくれん!」とねだった。なぜ自分の財布が欲しかったのか今となってはわからないが、少しは小遣いがたまっていたのかも知れない。祖母は「まあ、よかばい」と承諾してくれた。私は財布のことを夢に見るほど心待ちにしていた。祭りには祖母と二人で出かけたように思う。祖母は小倉城近くの「玉屋デパート」で財布を買ってくれた。チャックが付いた茶色い革の財布だった。以後、その財布は私の宝物になり肌身離さず持っていたが、いつの間にやら何処へ行ったのかわからなくなった。子供の興味・関心とは結局、それほどのものだったのかも知れない。
「美少女の肖像」
祖母が私によく見せてくれた写真があった。高等女学校(高瀬高等女学校=現・玉名高校)時代のものである。清楚な制服姿の祖母はまさに美少女だった。「これがうち(私)!」といつも自慢げに披露していた。その当時、高等女学校まで進学できる女子は裕福な家庭に限られており、祖母はある意味インテリだった。高等女学校在学中に祖父から見初められたそうで、結婚は親同志が決めたものだったらしい。祝言の日まで相手の顔を見ることもなかった。当日、新郎を初めて見て「こん人がうちの主人になる人たいね?」と思ったそうだ。祖父は教員だったが30代で早逝した。その後、祖母は5人の息子を抱えて随分苦労したらしい。1992年頃、祖母は小倉を離れ、父方の叔父が暮らす長崎へと移った。以後、叔父叔母が最後まで面倒をみた。2001年に亡くなるまでの間、米寿の祝いなどで何度か長崎に行ったが、そのたびに、祖母の高等女学校時代の写真を見ることになった。楽しそうに写真を見せていた祖母の姿が今も目に浮かぶ。