センバツが開幕し、桜の便りもあちこちから聞こえてきた。昨日も今日も春らしい日和で暖かい。この街で5回目の春が来た。
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最近、漢詩のシリーズが多いが、今日もまた漢詩である。漢詩には同じタイトルで複数の詩が詠まれているケースがある。例えば「赤壁」とか「秋思」のような作品である。
実は「涼州詞」もそんな詩である。王翰のものは昔から好きで、以前ブログでも紹介している。
http://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-11033034710.html
もう一つの「涼州詞」は王之渙(おうしかん)(688-742)のもので、こちらもなかなか趣深い作品である。
「涼州詞」 王之渙(おうしかん)
黄河遠上白雲間 黄河遠く上る白雲(はくうん)の間(かん)
一片孤城万仭山 一片(いっぺん)の孤城(こじょう)万仭(ばんじん)の山
羌笛何須怨楊柳 羌笛(きょうてき)何ぞ須(もち)ひん楊柳(ようりゅう)を怨むを
春光不度玉門関 春光(しゅんこう)度(わた)らず玉門関(ぎょくもんかん)
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(現代語訳)
黄河の上流を遡れば、その流れは遠くの白雲の間に漂い、その遥か彼方、高く聳える山々の頂に一つの孤高の城塞がある。その城塞の周りでは、羌族の笛が別れを恨む折楊柳の曲を奏で、兵士達の戦意を挫こうとしている。だが、そんな悲しい笛を吹くことも無かろう。何故なら、この辺境の地に、玉門関を越えて春の光が届くことは無く、楊柳は芽吹かず、旅人に渡す柳の枝を折ることさえできないのだから。
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この詩のテーマも、王翰の「涼州詞」に繋がるところがある。なお「楊柳」の意味について以下に補足しておく。
中国では古来より送別の際に楊柳の枝を取って輪をつくり、旅人へ贈る習慣があった。従って、羌族の奏でる楊柳の曲は、当然に兵士に知己との別れを思い起こさせるものである。
それを敢えて「この城塞には春が来ないので楊柳は芽吹かず無駄なことだ」と否定して自らを奮い立たせている兵士の心情が詠み込まれている。
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(自作英訳初版)
“A Song of Liangzhou” by Wang Zhihuan
Under the white clouds far upstream the
A ridge of solitary fort lies at the top of the soaring mountain.
No matter how sad a song of willow may be played on the flute,
Spring sunlight never comes here through the Yumen Pass.