私は「藤沢周平」(以下「藤沢周平さん」と言います)の小説が大好きです。藤沢周平さんの小説を全て読んでいるという訳ではないので、本当のファンの方には引け目を感じるのですが、それでも文庫本で40冊以上持っています。

 藤沢周平さんの作品については、このブログの【小説 「藤沢周平」の作品】①~④(2025年7月現在)でお話しさせていただいています。

 今回は、多くの素晴らしい時代小説を私たちに残してくださった「藤沢周平」という人はいったいどのような人だったのか、ということをお話ししたいと思っています。

 私は、藤沢周平さんの、小説以外の本を5冊持っています。列挙すると、藤沢周平さんの長女である「遠藤展子」さんが書かれた「父・藤沢周平との暮し」(新潮文庫)及び「藤沢周平 父の周辺」(文春文庫)、藤沢周平さん自身のエッセイ集「半生の記」及び「帰省」(どちらも文春文庫)、各界の著名人が藤沢周平さんの魅力を語った「藤沢周平のこころ」(文春文庫)、です。

 今回は、これらの本から知った藤沢周平さんの人物像などについてお話ししたいのですが、いろいろな苦労をされた経験の中から紡ぎ出された藤沢周平さんの生き方に、私はとても心を惹かれています。

 

 いろいろとお話ししているうちに忘れそうなので、藤沢周平さんについて私が抱いている印象について、最初にお話しします。

 藤沢周平さんは、あれだけの多くの名作を世に送り出している小説家なのですから、「大家」としてもっとエラそうな顔をしても当然ではないかと思うのですが、藤沢周平さんはそのような人ではありませんでした。うまく説明できないのですが、例えて言えば、藤沢周平さんは「人間国宝」の漆塗りの職人ではなく、普通の人が日常使う道具を、日常使うからこそ心を込めて作る簪(かんざし)職人や桶職人ではないかと思っています。

 

 藤沢周平さんの経歴をざっとお話しさせていただきます。

 藤沢周平(本名:小菅留治)さんは、1927年(昭和2年)に山形県東田川郡小金村(現:鶴岡市高坂)で生まれました。実家は農家で、藤沢周平さん自身も幼少期から家の手伝いをしていました。1942年(昭和17年)に小金村国民学校高等科を卒業した後、山形県立鶴岡中学校(現:鶴岡南高校)夜間部に入学し、昼間は印刷会社や村役場で働いていました。

 1946年(昭和21年)に鶴岡中学校を卒業した後、山形師範学校(現:山形大学)に進学し、入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人誌「砕氷船」に参加しました。

 1949年(昭和24年)に山形師範学校を卒業後、山形県西田川郡(現:鶴岡市)にある村立湯田川中学校に赴任し、国語と社会科を担当しました。当時、師範学校卒の教師はエリートであり、順調な人生を歩み出したことになります。しかし、1951年(昭和26年)3月の集団検診で、当時不治の病と言われていた肺結核であることが判明し、休職を余儀なくされます。

 1952年(昭和27年)2月に、東京都北多摩郡東村山町(現:東村山市)にある篠田病院に入院し、右肺上葉を切除する大手術を受け、予後は順調でしたが、5年間の闘病生活を送ります。この時期、大いに読書に励み、特に海外小説に親しみ、後の作家としての素地を作ったと言われています。

 1957年(昭和32年)に退院しますが、思わしい就職先が見つからず、郷里で教員生活を送ることを断念し、東京の業界新聞を出版している会社に勤めだしますが、倒産などが相次ぎ数誌を転々とします。1959年(昭和34年)に8才年下の同郷の女性と結婚し、1960年(昭和35年)に㈱日本食品経済社に入社し、「日本食品加工新聞」の記者になります。その一方で、文学への情熱は募り、勤務のかたわら小説を書き続けていました。

 1963年(昭和38年)に長女展子さんが生まれますが、同年10月に奥様が急性の癌によって急死します。藤沢周平さんは、やり場のない虚無感を埋めるために時代小説を書くようになったそうです。藤沢周平さんの初期の作品に特徴的な、救いようのない暗い雰囲気と悲劇的な結末には奥様の死が強く影響を与えているとのことです。この頃の心境を藤沢周平さんは以下のように述べておられます。「私自身当時の小説を読み返すと、少々苦痛を感じるほどに暗い仕上がりのものが多い。男女の愛は別離で終わるし、武士が死んで終わるというふうだった。ハッピーエンドが書けなかった」。

 奥様の死後は、郷里から、目が悪いお母さまを呼び寄せ、娘と3人で暮らし、業界紙編集長の激務のなか5年間を独身で過ごしました。1969年に再婚し、家事に疲れ切っていた生活から解放され、週末は小説執筆に専念できるようになりました。

 1971年(昭和46年)に「暗い海」(→「暗」は正しくは別の漢字であるが変換されない)第38回オール読物新人賞」を受賞し、1972年には「暗殺の年輪」で第69回直木賞を受賞しました。

 藤沢周平さんの作品は、初期には重く暗い作風でしたが、「竹光始末」や「用心棒日月抄」あたりから作風が変わっていき、ユーモアの彩りや美しい抒情性が加わるようになっていきました。

 

(以下次回→時期は未定)