前回のVol.87【アニメ 「東映動画」の作品②】では、虫プロの「鉄腕アトム」の爆発的なヒットを見て、東映動画もテレビアニメ「狼少年ケン」を制作し、劇場用アニメからテレビアニメへ、その軸足を移していく中で、久々に劇場用長編アニメを制作することになり、その監督を「高畑勲」さん(以下「高畑さん」と言います)が、また、作画監督を「大塚康生」さん(以下「大塚さん」と言います)が担当し、「太陽の王子ホルスの大冒険」の制作が1965年に開始されたが、その前途は多難であった、というところまでお話ししました。
[狼少年ケン オープニング]
[火垂るの墓 予告編]
大塚さんがその著作「作画汗まみれ」(文春ジブリ文庫)で語っているところによると、「太陽の王子ホルスの大冒険」は興行的には「それまでの長編漫画の最低を記録」したとのことです。しかしその後、この作品は、各地で「上映会」が開かれ再評価されていきました。私は、この作品がなかったら、「ルパン三世カリオストロの城」も、「風の谷のナウシカ」などのジブリの作品も、それに続く数々のアニメの名作も生まれてこなかったと思っています。
[ルパン三世 カリオストロの城 予告編 デジタルリマスター版]
[風の谷のナウシカ 予告編]
前回もお話ししましたが、「太陽の王子ホルスの大冒険」の作画監督を務めた大塚さんは、日本のアニメーションの草創期から活躍したアニメーターであり、生涯を通して「一(いち)アニメーター(作画の担当者)」として生きた方で、著作「作画汗まみれ」の中で「太陽の王子ホルスの大冒険」について詳細に記述しておられますので、以下、この本を基にお話しさせていただきます。
[ルパン三世(第1期) オープニング]
大塚さんは、1965年3月8日に、東映動画の企画部長から「つぎの長編の作画監督をやってほしい」と打診されます。その当時の東映動画のシステムでは大変な覚悟がないとできない状況(人手が足りない)でしたが、大塚さんは「演出は高畑勲さんにやってもらう」という条件で作画監督を引き受けます。高畑さんは、その粘っこい仕事ぶりと「狼少年ケン」の何本かで見せた演出の冴えによって、原画・動画スタッフの間で大きな信頼を勝ち得ていたそうです。このアニメは、企画の初期段階では「チキサニの太陽」というアイヌを舞台にした物語でしたが、その後、舞台を北欧に移して「太陽の王子」として制作することが決定しました。
「太陽の王子」の脚本第1稿は、全体として、小動物が楽しくからんで、いかにもマンガ映画らしいシナリオになっていましたが、人間のかかわり方の図式はきわめてあいまいなものでした。1965年の12月に第1項がスタッフに配られ、ここから決定稿に向けてのきびしい作業が始まりました。この時期に高畑さんを助けて前面に出てきたのが「宮崎駿」さん(以下「宮崎さん」と言います)でした。
人間のからみあいやキャラクターの個性を煮詰めていってドラマに破綻なく組み込んでいく作業は、これまで「どうせマンガ映画でしょう」とあいまいにしていた部分で、高畑さんはそこに挑戦しました。
シナリオは、2稿、3稿、4稿と次第に密度を上げていき、詰めの作業は高畑さんと宮崎さんの仕事になりました。
全員から募集したキャラクターの最終候補を、役員も出席する検討会に提出したのは、予定であった1966年1月から大幅に遅れた1966年3月でした。そして、絵コンテの作業に入りましたが、スタッフたちは、高畑さんを中心として、決して誇張ではなく「これがきっと最後(の劇場用長編アニメ)になる」と信じて歯をくいしばって、克明な画面作りを開始しました。
そして、「太陽の王子」は当初計画されたスケジュールでは到底仕上がらないことが次第に明らかになり、ついに1966年10月に、会社側から制作中断が発表されました。その発表のすぐ後に、大塚さんは企画部長に呼ばれ、「君たちは大変なことをしているんだよ。予算、スケジュールの大幅な超過がどういうことになるかわかっているんだろうね」と言われました。しかし大塚さんは、この映画を熱烈に支持して頑張っているスタッフのために、急に手を抜くことはできません。大塚さんはうつむいて、ただ「がんばります・・・」と答えました。
1967年7月に「太陽の王子」の制作が再開され、それからちょうど1年後の1968年1月に動画の制作が完了し、初号試写が行われました。
「太陽の王子」は、原画・動画28人(ちなみに「西遊記」は80人)で1カットも外注に出さず、1年半弱の期間で、密度の高い動画枚数5万8000枚を描き上げたのです。当初7000万円の予算は1億3000万円と倍近くになっていました。
幼児を主な観客層とした東映の「明るく楽しい漫画映画」路線のなかに、突然生まれた「太陽の王子」は東映の興行宣伝方針にも戸惑いを与えました。この作品は1968年7月に「太陽の王子ホルスの大冒険」として封切られましたが、興行成績はそれまでの長編漫画映画の最低を記録しました。「太陽の王子」のなかに盛り込まれているテーマ、団結や村人内部の矛盾、ホルスの悩み、ヒルダの迷い等は、すべてが高校、大学生くらいの年齢を対象に設定されていたことが不振の最大の原因でした。東映興行部には、この作品を高校、大学生に向けて宣伝するという発想は皆無で、いつもの通りお子様向けのパブリシティしか行っていませんでした(それは予告編を見ると明らかです)。
[太陽の王子ホルスの大冒険 予告編]
この「太陽の王子ホルスの大冒険」という作品は、確かに興行的には失敗でしたが、その努力は、後に「アルプスの少女ハイジ」という形で結実し、スタジオジブリへと引き継がれていき、それらの作品群は、日本のアニメーションのみでなく、ディズニーやピクサーでアニメーション制作に携わっている人たちなどの世界的なクリエイターに大きな影響を与えることになりました。
[アルプスの少女ハイジ オープニング、エンディング]
[となりのトトロ オープニング]
[海外の人が紹介するホルスの大冒険]
[村人たちとヒルダ]
※ Xに画像と映像を投稿しました(2025.1.26)。
https://twitter.com/sasurai_hiropon