Vol.111【合気道の開祖植芝盛平の伝説①】の続きです。

 塩田剛三氏が「合気道修行」に書いておられる、植芝守平氏の不思議な言動について、続いてご紹介したいと思います。

 

③  ある時、陸軍の砲兵官の人が、軍の関係者を九人ばかり連れて植芝道場にやってきました。この時いっしょに来た人たちというのは鉄砲の検査官でした。射撃の腕前はオリンピック級で、私(塩田剛三氏:以下同じ)が見せてもらった時も、本当に百発百中なのでビックリしました。そういう人たちを前に演武を行った植芝先生が、「ワシには鉄砲は当たらんのや」と言ってしまったのです。検査官の人たちはプライドを傷つけられて、すっかり怒ってしまいました。「本当に当たりませんか。試していいですか」と先生に詰め寄ります。先生は「けっこうや」と答えます。その場で、「何月何日に大久保の射撃場で鉄砲の的になる」という誓約書を書かされ、拇印まで押す羽目になってしまいました。これで、植芝先生が鉄砲で撃たれて死んでも文句が言えないようになってしまいました。

 さて、その当日、先方から迎えが来て、植芝先生を大久保の射撃場へ連れて行きました。お供は私と湯川さんでした。射撃場に着くと、大変な事態だということが分かりました。先生を撃つのは一人かと思っていたら、なんと六人がかりだというのです。用いる銃はピストルでした。射撃場では、ピストルの有効射程距離である25メートル先に人間の形をした的が置かれています。今回は、その場所に植芝先生が立つことになりました。こちらのほうでは、六人の検査官がピストルを構えました。

 「一、二、三」で、六つの銃口が火を吹きました。砂埃がもうもうと舞い上がったかと思うと、次の瞬間、六人のうちの一人が宙に舞ったのです。先生が、いつの間にか六人の後ろに立ってニコニコ笑っています。

 納得できない様子の検査官は、もう一度やらせてくれと申し出ました。もう一度、六つの銃口が先生に向かって火を吹きました。すると、今度は別の検査官が投げられて宙を舞いました。先生は、またもや検査官の後ろに立っていました。私は、今度こそ、何が起きたのか見極めてやろうと目を凝らしていたのですが、先生の動きは何一つ見えませんでした。六つのピストルの引き金が引かれると、次の瞬間、先生は25メートルの距離を移動して、人一人を投げ飛ばしているのです。首を傾げる軍の関係者をあとにして、先生は意気揚々と引き上げたのでした。

 

④  山梨にいる私の知り合いで、鉄砲撃ちの名人である佐藤貞次郎という猟師がいました。この佐藤さんが山鳥を撃つ場合、山鳥のスピードは時速200キロぐらいになるそうですが、佐藤さんは百発百中で山鳥の頭を射抜くのです。

 ある時、私は、佐藤さんに、植芝先生が鉄砲の弾をよけたことを話しました。佐藤さんは「それでもワシの鉄砲はよけられん」と言い、先生と勝負するために山から下りてきました。先生はこの挑戦を受けたのです。

 道場の奥に先生が正座して座り、離れたところから佐藤さんが猟銃を構えました。佐藤さんの指が今まさに引き金を引こうとした時です。先生が「待て、あんたの鉄砲は当たる」と言い、佐藤さんを制しました。さらに先生は続けます。「あんたはワシを撃ってやろうなどと言う気持ちがこれっぽっちもない。最初から当たるつもりで撃とうとしている。そんな人の鉄砲はよけられない」。先生はそう言って、佐藤さんに頭を下げました。佐藤さんはほんとに喜んで山に戻って行きました。佐藤さんの鉄砲も名人なら、それを察知して勝負を退いた植芝先生も名人です。大変に貴重な名人同士の勝負を見ることができました。