皆さんは、「ミュシャ」の絵をご存じでしょうか。装飾的な背景の前で、時には微笑を浮かべ、時には妖艶な肢体をさらす絶世の美女の絵が有名で、ミュシャの名前を知らない人もどこかで見たことがあり「ああ、この絵か」と思われるのではないかと思います。

 どちらかと言うと「イラスト」に近いこれらの美人画は、とにかく女性を美しく描いており、また、背景の装飾的な技巧は目を見張るものがあり、私にとって大好きな絵であることは間違いありません。

 

 

 ただ、ミュシャがその生涯で描いた絵は「美人画」だけでなく、そのような美人画で築いた名声を捨てて故郷に帰り、その後長い歳月をかけて描いた「スラヴ叙事詩」という大作があることについてお話ししたいと思っています。

 私は、今から8年前(2023年現在)にハンガリー、オーストリア、チェコに旅行に行きました(1週間の駆け足旅行でしたが)。その時に、チェコで「聖ヴィート大聖堂」という教会を見学したんですが、そこにミュシャが制作した大きなステンドグラスがあり、その素晴らしさに驚嘆しました。今まで見てきた美人画のミュシャとは全く違う世界がそこにはありました。そこで、自由時間に、分かりにくい地図を頼りに電車に乗って「ミュシャ美術館」に行ってきました。この美術館には、美人画などはあまり展示していなくて、スラヴ民族の生活に根差したどちらかと言うと地味な絵画が多く展示されていました。私は、それらの絵画を見て、何と言うか、スラヴ民族の情念とでも言うのでしょうか、そのようなものを感じて、心を惹かれました。

 そして、今から5年前(2023年現在)に、国立新美術館(東京都港区)において「ミュシャ展」が開催されたんですが、この展覧会には、ミュシャが晩年の約16年を捧げて描いた「スラヴ叙事詩」全20点が展示されると聞いて、チェコの旅行のことが頭をよぎり「これは絶対に見に行かなければ」と思いました。観覧してみて、本当に感動してしまいました。どのようなところに感動したのかということをこれからお話ししたいと思います。

 

 

 まずミュシャの歩みについて少しお話しします。

 ミュシャは、1860年にオーストリア帝国(当時)のモラヴィアというところで生まれました。19歳でウィーンに行き舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通い、25歳の時にエゴン伯爵という人の援助でミュンヘン美術院に入学、卒業し、28歳の時にパリの美術学校アカデミー・ジュリアンに通います。

 1894年(34才の時)に、舞台女優サラ・ベルナール芝居「ジスモンダ (en:Gismonda)」のために作成したポスターが、当時のパリにおいて大好評を博し、一夜にしてアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものにしました。その後、パリにおいて数多くのポスター・装飾パネルの製作を行い、1901年には、名誉あるレジオン・ドヌール勲章を受章しています。

 1908年の秋(48才の時)に、ボストン交響楽団のコンサートで、スメタナ作曲の交響詩「わが祖国」を聞き、芸術を通してスラヴ民族の団結を促し、スラブ民族の文化のために生涯を捧げる決意を固めたと言われています。そして、1910年(50才の時)に、祖国であるチェコに帰国します。

 

 

 1911年にはプラハ市民会館の「市長の間」の壁画を完成させ、1918年に第一次世界大戦の敗北によりオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が誕生した際には、新しい国家の国章・切手・紙幣のデザインをほぼ無償で行いました。

 その後、ミュシャは、長い年月をかけて「スラヴ叙事詩」全20点を完成させましたが、1939年3月にチェコスロバキアに侵攻したドイツ軍のゲシュタポ(秘密警察)に逮捕され、数日間の尋問の後に釈放されますが、同年7月に肺炎を悪化させ死去しました(享年78才)。

 次回は、大作「スラヴ叙事詩」の内容についてお話ししたいと思います。

 

(以下次回→時期は未定)

 

※ ツイッターに画像を投稿しました(2023.7.3)。

https://twitter.com/sasurai_hiropon