漫画家である「つげ義春」さんのことをお話ししようと思います。

 私は、つげ義春さんの漫画が大好きなのですが、この方の漫画を何と形容すればいいのか、戸惑ってしまいます。制作した年代によって、その作風がガラリと違います。ほのぼのとした作品もあれば、シュールで難解な作品もある。また、私小説のような作品や、まるで素人が描いたような(意図的にでしょうが)作品もあります。

 ピカソは、その年代によって、同一の画家が描いたとは思えないほど、その作風が変化しています。ピカソが天才だとすれば、つげ義春さんもやはり天才なんだと、私は思います。

 つげ義春さんは、1937年(昭和13年)に東京都葛飾区で生まれました。中学には進学せず、メッキ工場に勤めながら、漫画を描きます。「おばけ煙突」、「不思議な手紙」などの貸本漫画を数多く執筆した後、1965年に、貸本漫画家の集まりで、白土三平氏(「カムイ伝」で知られる)や水木しげる氏(「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる)と知り合い、漫画雑誌「ガロ」に執筆するようになります。ガロでのデビュー作は「噂の武士」です。その後、ガロ紙上に、「チーコ」、「沼」、「赤い花」、「山椒魚」、「季さん一家」などの作品を、立て続けに発表します。どれも素晴らしい作品です。

 そして、1968年(昭和43年)に「ねじ式」を発表します。この作品は、その後の数多くの漫画家に多大な影響を与えた作品で、映画にもなりました。海岸で「メメクラゲ」に腕を咬まれた青年が、血が噴き出す腕を抑えながら、医者を求めて奇妙な街をさまようという、悪夢のような作品です。

 この年には「ほんやら洞のべんさん」、「ゲンセンカン主人」、「もっきり屋の少女」、「長八の宿」、「オンドル小屋」などの作品を、翌年の1970年(昭和45年)には「蟹」、「やなぎ屋主人」などの素晴らしい作品を発表しています。

 寡作であると言われているつげ義春さんが、1966年(昭和41年)から1970年(昭和45年)にかけて、数多くの密度の濃い作品を発表されたことは、全く奇跡としか言いようがありません。

 それ以降は、「夜が掴む」、「コマツ岬の生活」、「ヨシボーの犯罪」などの自分が見た夢を題材にしたシュールな作品、「無能の人」、「隣の女」、「石を売る」などの私小説的な作品を発表していましたが、次第に発表作品が少なくなり、1987年(昭和62年)に2つの作品を発表してからは、作品を発表されていないと思います。

 手塚治虫さんが日本の漫画の「表の立役者」なら、つげ義春さんは日本の漫画の「影の立役者」ではないかと、私は思っています。