以前の記事で、東海道・山陽新幹線の車両の老朽取り替えに関しては「0系を0系で置き換える」ことを実行したことを指摘したことがあります。
しかし、当初置き換え用に投入された0系1000番代は、従来車と内装が同じだったため、特に長距離利用者から不興を買うことが多かった。…とここまでお話し申し上げました。

そこで、置き換え用に投入する0系車両には、以下のような設計変更を施すことにしました。

1 普通車のシートピッチ拡大(940mm→980mm)及び簡易リクライニングシート化。
2 グリーン車は座席形状と内装見付を変更、豪華さを演出。
3 客用窓周りのFRPユニット化と窓サイズの拡大。
4 先頭車の運転席側面の窓を外はめ式のサッシに変更。

1は言うまでもなく、昭和55(1980)年に最初の量産車が登場した、東北・上越新幹線用の200系車両の内装に範をとったものです。シートピッチを拡大したため、普通車形式の21・22・25・26は、いずれも0・1000各番代の同型車と比べると1列(5人)定員が減少しています。
また、ビュフェ車との合造形となる37形は、1000番代から1列座席を減らした1500番代に範をとった設計となったため、2500番代が付与され、2000番代は存在しません。さらにいえば、2000番代が存在するのは、上記の5形式の他には、グリーン車の16形だけです。
つまり、15・27・36の各形式には、2000番代は存在しません。これも言うまでもなく、0系の既存編成の老朽車を取り替えるためだけに作られたグループだからです。そのため、全車両が2000番代で組成された編成も存在しません。
2は残念ながら16形だけで、15形の2000番代は現れなかったのですが、こちらは普通車よりも大きく印象を変えることとなりました。具体的には、200系のグリーン車215形に範をとり、ダークブラウンの大きなバケット型の座席に木目調の化粧板という、従来型の0系グリーン車とは全く異なる、重厚なテイストにまとめられています。この16形2000番代の内装は、従来車を更新した車両にも施されています。
3に関しては、従来車の窓部分が窓の角部の造作が見えてしまって安っぽい印象を与えることが考慮されました。
確かに車内の窓周りがFRPのユニットになり、見栄えは向上したのですが、ある問題が生じました。
それは、窓下に物を置くことができなくなったこと。
それまでの国鉄の車両は、クロスシート車の窓の下の部分に物を置くことのできる細長い部分があり、新幹線や特急だと、窓側に座った乗客はそこに飲食物を置くのが常でした。ところが、0系2000番代ではその場所がなくなってしまい、それまでの習慣で車内販売で求めたホットコーヒーを窓側に置こうとした乗客がコーヒーをこぼして火傷をしたという事例もあったそうです。後にこれは改良され、窓側にも物が置けるように窓下部に平面になる部分を作った改良型の構造物になっています。
4に関しては、それまでどことなく優しげな顔だった0・1000番代とは異なり、外はめ式に改められたことで、見た目のいかつさが増し、精悍な顔つきになりました。

2000番代の登場と同時に、従来車の0・1000番代の車両も座席の取り替えが開始され、昭和58(1983)年に「ひかり」全編成の取り替えが完了しました。しかし、座席を取り替えたのは「ひかり」編成だけで「こだま」編成は対象外であり、かつ従来車はシートピッチがそのままだったため、かえって狭苦しくなってしまった(特に足もとが)という難点もあったのは事実です。
そして2000番代車は「ひかり」編成・「こだま」編成を問わず、老朽車を抜き出して差し替えられ、抜かれた従来車は廃車されていきました。

2000番代の登場で、0系はひとつの頂点に達しました。
しかし、基本設計が1960年代の0系は、既に内外装もメカニックにも陳腐化が見受けられるようになりました。昭和60年には100系試作車が登場、普通車のシートピッチがさらに1040mmにまで拡大され、3人掛け席も回転可能となりました。こうなると、3人掛け席が固定式の0系は見劣りするようになってしまいます。
それでも在来車取り替えのため、0系は細々とながらも製造が続けられました。最終の製造は何と、100系の量産車が世に出る直前の昭和61(1986)年! この年の3月に最終増備車の38次車16両が製造され、0系最後の新造車となります。
この年、0系は製造を終了しますが、この年までの0系の累積製造両数は3216両という多数にわたり、製造されていた年数は昭和39(1964)年からの23年間という長期にわたりました。その後は、中間車を先頭車に、食堂車やグリーン車を普通車に、などといった車種間改造が行われたり、さらなるリニューアルが行われるなどして活躍を続けますが、製造を終了した昭和61年から13年後の平成11(1999)年には東海道区間から引退し、さらにその9年後の平成20(2008)年に山陽区間からも引退しています。0系の営業運転開始から完全な退役までは、何と驚くなかれ44年間! 勿論、完全退役のときには開業当初の車両は1両も残ってはいませんが、基本設計が半世紀近く前の車両が、これだけの長期間現役だったことには、率直に感嘆せざるを得ません。ただ、これだけの長期間、0系の製造が継続されたのは、当時の国鉄の内部事情も勿論あるのでしょうが、あえてプラス面を評価するならば、0系のシステムそのものの完成度が非常に高かったこともあるでしょう。また、車種を統一することで、特にメカニックの面における保守の煩雑さを軽減できるというメリットもあるにはあります。しかし、同一の車種を長期にわたって投入し続けることは、技術的な停滞を招いてしまったというマイナス面もあり、功罪相半ばするところはあります。

実は、昭和50年代の国鉄では、東海道新幹線の輸送力の逼迫が懸念されており、そのため2階建て新幹線の構想が研究されていました。このときの研究の成果が、後のJR東日本でオール2階建て新幹線「Max」として開花するのですが、東海道・山陽新幹線でも、この2階建て新幹線の研究成果を取り入れた新型車両の構想が語られることになります。これが後に登場する100系ですが、この車両については次回に取り上げます。

その16に続く

※ 当記事は暫定的に08/01付の投稿とします。この関係で、投稿時点では当記事には通し番号(ブログナンバー)を振りません。
※ 08/04付で07/15付の投稿に変更し、併せてブログナンバー2839を振ります。