しばらくお休みしていたこの連載も、今回のアップをもって再開させていただきます。
なお、この記事には通し番号(ブログナンバー)を振りませんが、それは後日並べ替えるためですので、何とぞご了承ください。

では本題。
昭和50年代は、国鉄の経営も厳しさを増し、それは新幹線も蚊帳の外とはなり得なかった。そのことは、前回までの記事で申し上げました。
それでもこの間の昭和57(1982)年には、6月に東北新幹線が、11月に上越新幹線が、大宮までの暫定的な形態ながらもそれぞれ開業し、新幹線にも仲間が増えました。
「時刻表」でも、それまで東海道・山陽新幹線を単に「新幹線」と称していたものが、晴れて「東海道・山陽新幹線」と表記されるようになります。

このような明るい話題こそあったものの、寝台特急「紀伊」の機関士の飲酒乗務に起因する事故など、国鉄内部に不祥事が多発し、国民の国鉄への不信は頂点に達します。
当然のことながら、その間にも利用者の減少は止まらず、昭和59(1984)年2月にはヤード系貨物列車の全廃や地方幹線を走る夜行列車の廃止など、合理化を推進するダイヤ改正を実施しています。
この年には、東海道新幹線でも、あるショッキングな方策が取られます。それは、利用率が低迷していた「こだま」の短編成化でした。
それまで16連の大編成を誇っていた「こだま」編成ですが、編成短縮により12連とされ、編成両数だけ見れば開業当時のそれに戻されたことになります。これは、「こだま」16連化完了後11年を経て、東海道・山陽新幹線全列車16連の原則が崩れてしまったわけですが、当時の国鉄の稼ぎ頭だった東海道新幹線ですらも、当時在来線で進んでいた、乗客減少・短編成化の波と無縁ではなかったことを示す、象徴的な出来事といえます。
なお、短編成化にあたっては、16連のうちの1~4号車を抜くという方法で行われ、12連の先頭は5号車となり、ビュッフェ車は9号車(編成では下り寄り5両目)、グリーン車は12号車(同前・8両目)となりました。そして停車位置は、5号車の部分に先頭車が来るというものでした。これは勿論、16連の列車と並ぶことを考慮した、列車案内上の都合です。
管理人は昭和60(1985)年のゴールデンウィークに、日帰りで飯田線に乗りに行き、往路に朝一番の「こだま」を利用したのですが、この列車が短編成化されたあとの12連で、5号車の停車位置に停車している5号車の21形を見て(当時管理人が乗ったのはこの5号車の21形)、国鉄の看板列車ですらこれかと、何とも言えない寂寞たる気分を味わったことを覚えています。
「こだま」の短編成化は、翌年末までに完了しました。
以下は管理人の個人的な慨嘆なのですが、当時の「こだま」は12連化されたとはいっても、ビュフェ車もちゃんと連結され、しかも車内販売も。両方とも東京-新大阪間通しの列車ではほぼ必ず営業していましたから、16連の偉容を誇っていてもビュフェ車は勿論車内販売すらなくなってしまった現在の「こだま」と比べると、当時の方がソフト面が充実していたのではないか、と思ってしまいます。もっともこれは、管理人の鉄道愛好家としての視点でしかありません。そのことはよく分かっていますが、やはり当時を知る者からすると、寂しいものがあります。

このような状況下においてもなお、「ひかり」の需要は堅調に推移していました。
そこで国鉄は、このような需要の推移を直視し、昭和60(1985)年3月のダイヤ改正において、遂にダイヤパターンの改変を行いました。それまでの「ひかり」「こだま」同比率のダイヤパターンを改め、「ひかり」に重点を移した「6-4ダイヤ」を採用します。同時に、新横浜停車の「ひかり」をダイヤパターンに正式に組み込み1時間あたり2本設定、さらに熱海-豊橋間で2駅に停車する「HKひかり」を、こちらもダイヤパターンに正式に組み込み、1時間あたり1本設定しています。
「HKひかり」とは国鉄部内で呼ばれていた愛称で、「H」が「ひかり」の、「K」が「こだま」のそれぞれ頭文字。つまり、「HKひかり」とは、「ひかり」と「こだま」の中間の性格を持つ列車として位置づけられていたことを示す愛称ということです。
ちなみに、当時の愛好家や利用者はどう呼んでいたかというと、「HKひかり」ではなく、「ひだま」と呼ばれていたことが多かったような気がします。こちらは「ひかり」と「こだま」を単純にあわせたものですが、こちらも「ひかり」と「こだま」の中間的な性格を持つ列車であることが分かりますね。
「HKひかり」の登場は、それまで停車駅を絞っていた「ひかり」のイメージを一新し、従来はイレギュラーだった途中駅停車を正式にダイヤパターンに組み込んだものとして注目されましたが、この列車の意図は、それまで「こだま」を利用するしかなく、速達列車の恩恵に与るのが難しかった途中駅利用者にもその恩恵を及ぼそうというもので、従来の画一的なダイヤパターンとは一線を画するものでした。このような列車が登場したこと自体、従来の発想では考えられなかったことで、こと東海道区間に関する限り、既に民営化を先取りしているような感もありました。
なお、このような「ひかり」の停車駅パターンの多様化があったためか、「6-4ダイヤ」とはいっても「ひかり」が綺麗に10分間隔になったわけではありませんでした。毎時00分発の「Wひかり」博多行きの後は、10分発ではなく12分発「Aひかり」(季節列車)、その後が17分発が広島行き「Bひかり」(新横浜停車)、30分発が今回の改正の目玉となる「HKひかり」、42分発が岡山行き「Aひかり」、47分発が博多行き「Bひかり」又は新大阪止まりの「ひかり」(新横浜停車)となっていました。そのため、わかりやすさと言う点では、一歩後退ともいえました。もっともこの問題は、ダイヤ構成について「わかりやすさ」を重視するか、「多様性」を重視するかといった、ある意味「永遠のテーマ」とも言えるものですが。
このように、昭和60年のダイヤ改正は、「ひかり」に著しい充実が見られる改正でしたが、「こだま」も12連に減車されたとはいえ、どっこい東海道区間では1時間あたり2本をしっかり確保しています。

そしてこの改正の隠れたセールスポイントは、東海道・山陽新幹線のスピードアップでした。最高速度は210km/hのままでしたが、途中停車駅の停車時間や余裕時分の見直しなどにより、東京-新大阪間で2分短縮の3時間8分となりました。たった2分ではあったものの、昭和40(1965)年11月以来20年ぶりのスピードアップとして注目されたものでした。
東海道区間の時間短縮は2分というささやかなものでしたが、山陽区間のそれは実に14分。東京-博多間の最速所要時分は6時間26分(新大阪での停車時間2分を含む)。博多開業から10年で30分短縮したわけですが、これは山陽区間の高規格の路盤からすれば、むしろ当然過ぎるくらいの数字といえました。

この昭和60年という年は、国鉄再建監理委員会から、国鉄の経営改革に関する最終的な結論が出された年でもあります。その結論とは、国鉄を全国6社(貨物会社を入れると7社)に分割の上民営化すべきであるという同委員会の答申です。
国鉄内部でも、もはや労使対立に明け暮れている場合ではなくなり、民営化への胎動が始まります。
その一環として、ある画期的な車両が東海道・山陽新幹線に登場します。次回はその車両…の前に、0系の最終増備車と内装のリニューアルについて取り上げることにいたします。

その15に続く

※ 当記事は暫定的に08/01付の投稿とします。
※ 08/04付で当記事を07/08付に変更、併せてブログナンバー2838を振りました。