新幹線が盛岡に達してからちょうど20年。
平成14(2002)年12月、東北新幹線は遂に青森県に達し、八戸へ到達することになりました。

八戸は、当然のことながら県庁所在地ではありません。山形新幹線の新庄を除いて、県庁所在地ではない都市の駅を終着駅にするのは、八戸が初めての事例となりました。
もちろん、将来的には青森、そしてその先の北海道への延伸は当然見込まれていたのですが、県庁所在地でもない場所が、一時的とはいえ終着駅になったのは、いかなる理由があるのでしょうか。
その理由は、整備新幹線計画、特に東北新幹線の延伸に関して、規格の問題が二転三転したことによります。
昭和63(1988)年に整備新幹線計画が再開された時点では、盛岡~沼宮内間と八戸~青森間は在来線を改軌するミニ新幹線方式、沼宮内~八戸間をフル規格で建設されることになりました。しかし、この計画は当然のことながら地元の反発を招き、全線フル規格への変更への要望が出されることになりました。そのため、平成6(1994)年には盛岡~沼宮内間をフル規格に変更する代わりに、八戸以遠のミニ新幹線計画が取り下げられています。盛岡~八戸間のフル規格での建設は、平成7(1995)年に認可されています。
つまり、県庁所在地ではない八戸が東北新幹線の終点となったのは、八戸までをフル規格で建設する代わりに、「とりあえず」八戸まで延伸し、青森までの一気の延伸は目指さないことにした結果といえます。

八戸開業時、華々しくデビューしたのは、盛岡までの停車駅を減らして速達性を高めた列車です。この列車は全車指定席(東京発着列車)とされ、愛称も新しく「はやて」となりました。「はやて(疾風)」は大正末期に特急列車の列車名を初めて公募し「富士」「櫻」と名づけたときから、新幹線や特急の列車名の公募となると常に上位にランクインしていた名前ですが、どういうわけか、それまで実際に名付けられることはありませんでした。その理由は一説によると、「はやて」とは東北地方太平洋側で夏場に吹く冷たい季節風「やませ」の別称ともいわれ、冷害を暗示するものとして縁起が悪いとされたことが指摘されたりします。
しかし21世紀の御世にこの名前が使用されるとは、農業技術の進歩に伴い冷害発生のリスクが低下したからなんでしょうか。
なお、「はやて」という列車名について、当時は盛岡以遠へ行く列車という意味合いがあったようで、仙台発着の区間運転の列車や、後に設定された盛岡-八戸間の区間列車も「はやて」を名乗っています。

そして「はやて」に使用される車両は、E2系。
同系はそれまでにも東北新幹線に投入されており、青森方先頭車に自動解結装置を装備した編成が使用されていましたが、八戸開業に合わせてそれまでの8連を10連化、合わせて編成単位での増備も行われました。このときの増備車は1000番代とされ、新幹線の始祖・0系のような2席1窓の大窓となりました。車高は異なりますが、中間車だけ見ていると、本当に0系のそれにそっくりに見えるんです。もちろん、既存編成に組み込んだ2両も大窓で、そのため他の狭窓車と明らかに異なる窓割りになっており、増結車が一目で分かります。これも、狭窓・大窓が混在した0系と同じですね。
10連化された編成は、長野新幹線用とは外観を変え、車体下半分を紺・上半分を白、その間に入る帯を長野用と共通の赤からピンクに変更しました。合わせて風をイメージするロゴも、青森の特産品・リンゴをイメージするロゴに変えられました。長野用は帯・ロゴともそのままとされました。編成単位で投入された1000番代は、もちろん帯はピンク、ロゴもリンゴをイメージしたものを当初からつけています。
もともとE2系は長野用と東北用で予備車を共通化する目論見もあったようですが、八戸開業に際して東北用を10連化したこと、さらに帯色とロゴを違えたことで完全に用途が分離されました。なお、E2系といえば電源周波数50/60Hzいずれも走行可能でしたが、1000番代は東北での使用に特化され、電源周波数は50Hzのみに対応しています(したがって長野新幹線には入れない)。
また、八戸開業に際し、「こまち」の併結相手はそれまでの「やまびこ」から一部の臨時を除き全て「はやて」に変更され、新幹線区間でのスピードアップが図られました。さらにE3系が高速走行性能に長けていることから、一部列車で行っていた仙台での分割・併合も、一部の臨時便を除いては全て盛岡に統一されました。

「はやて」が走り出すと、面白い現象が起こります。
実はこのとき、「やまびこ」の中にも、上下各1本だけ上野-盛岡間の速達列車があって、しかもこの列車には自由席を設けていたことから、自由席を連結した速達列車としての存在意義がありました。
しかし、この列車の乗車率は振るわず、後に仙台発着の「はやて」すら登場するに至ります。
それはなぜかというと、列車愛称の持つイメージでした。「やまびこ」は多くが大宮-仙台間の途中駅にも停車し、しかも仙台以北が各駅停車。対する「はやて」は大宮-仙台間が無停車で、仙台-盛岡間も多くが無停車。つまり、「はやて」こそが最速であるというイメージが利用者の間に定着し、逆に遅いイメージのある「やまびこ」が敬遠された、ということがあったそうです。後にこの速達「やまびこ」、「はやて」の一員に編入される形で姿を消していますが、「はやて」のブランドイメージの浸透が思いの外早かった証左ともいえそうです。

ところで、それまで新幹線接続の特急「はつかり」が行き交っていた在来線は、並行区間が第三セクターに移管されました。それも、長野新幹線開業に伴うしなの鉄道のような単一の運営ではなく、岩手・青森県境に所在する目時駅で分け、岩手県側が「IGRいわて銀河鉄道」、青森県側が「青い森鉄道」となりました。盛岡駅の先の好摩駅で花輪線が分岐していることから、第三セクターになるのは好摩以北かと思えばさにあらず、盛岡以北とされました。
特急の待避がなくなって列車の速度も向上し、運転本数は以前と変わらないのですから、サービスダウンではないのですが、やはり第三セクターの悲しさで、運賃が高額になってしまい、特に通学定期の割引率が低いため、通学生に多大な負担を強いたという問題もあります。また、前述の花輪線の問題は、花輪線から盛岡駅への運賃が割高になるという問題も生じさせました。
このあたりは、しなの鉄道もそうですが、並行在来線転換の影の部分ではないかと思います。これから北陸新幹線が開業すると、並行在来線転換の第三セクターはさらに増えますが、本当に大丈夫なんでしょうか。

八戸から先は、これまでどおり特急列車が接続して青森や函館へ向かうようになったのですが、当然盛岡発着は八戸発着に改められ、八戸-函館間と八戸-青森・弘前間の2つの運転系統となりました。
それまでの「はつかり」の愛称は消え、前者には「白鳥」「スーパー白鳥」、後者には「つがる」の名を冠しました。「白鳥」は平成13(2001)年まで走っていた大阪-青森間の特急の愛称でしたが、廃止1年半後に掘り起こされました。しかし、「白鳥」の名前は未だに日本海縦貫線の印象が強いのですが…。「はやぶさ」を起用したときといい、このころからJR東日本の列車名の選定は、周囲の予想の「斜め上」を進んでいるように思われてなりません。
また、八戸開業に伴い、昭和39(1964)年から運転を開始した、東京~九州系統以外では初のブルトレ「はくつる」が、惜しまれながら運転を終了しています。
これに対し「北斗星」や「カシオペア」などの東京~北海道間のブルトレの運転は継続され、第三セクター鉄道を走る初めてのブルトレとなりました。

東北新幹線の本当の終点・青森への工事ですが、平成8(1996)年にフル規格で建設することが決まり、平成10(1998)年3月に着工しています。開業はその12年後の平成22(2010)年12月でしたが、八戸開業に沸いているまさにその時期には、既に青森への道筋ができていたことは、特筆されるべきことでしょう。つまり、八戸駅は、当初から「暫定的な終着駅」となることが運命付けられていたわけです。

その10年後、東北新幹線はまた新しいステージに進むことになります。次回はそのお話を。

-その15へ続く-