昭和60(1985)年3月14日。
東北・上越新幹線は、着工から14年の歳月を経て上野に達しました。
このとき、東北・上越線に残っていた上野発着の在来線特急は「つばさ」1往復と「あいづ」を除いて廃止。羽越線経由で青森へ走っていた「鳥海」も秋田までに短縮の上、臨時に格下げ。上野発着の急行は長距離の「佐渡」(上野-新潟)や「まつしま」(上野-仙台)などは全廃、中距離急行は全て185系の「新特急」に衣替えしました。

既に何度か触れていますが、東北・上越新幹線の工事は、大宮以北よりも大宮以南の方が時間・労力がかかっています。それは、以下の問題があったからです。

1 赤羽-大宮間の反対運動が猖獗を極めたこと
2 上野駅の問題(上野駅は当初計画にはなかった)

この区間の工事で最も難航したのが、赤羽-大宮間の反対運動への対応でした(1)。
この沿線では赤羽駅の北側で学校の真下をトンネルで抜けることや、住宅地を抜けることなどから、東京都北区や川口・浦和(現さいたま市)・与野(同)の3市を中心に、大規模な建設反対運動が起こりました。その内容も、建設工事現場への座り込みや差止訴訟を起こすなど徹底したもので、国鉄もその対応には苦慮してきました。言うまでもなく、東北・上越新幹線が大宮からの暫定開業という形を取らざるを得なかったのは、この反対運動による工事の遅れが原因です。
結局、最終的には、

通勤別線を新幹線に沿って敷設すること(現在の埼京線)
新幹線の高架と建物の間に緩衝地帯を設けること
上野-大宮間での新幹線列車の最高速度を110km/hに抑えること

などの条件の提示で、反対運動も終息していきました。
余談ですが、①の通勤別線-埼京線に投入された車両こそ、205系投入で山手線から押し出された103系だったのですが、実はパワーをセーブして走る200系新幹線よりも、高速走行する103系の方が騒音で上回っていたというのは、何とも皮肉な話です。一説には国鉄の意趣返しだったとも言われていますが、まさか…ね。
また、③の最高速度にしても、住民の合意で最高速度を抑えているというよりは、この区間では急カーブが多くなっており、そもそも物理的にスピードを出すことができない線形となっています。

もうひとつ、上野駅の問題もありました(2)。
実は、東北新幹線の路線計画が発表された当時、上野駅を設けず東京駅発着とする計画だったのです。その計画では、東京駅発車後秋葉原駅付近で地下に潜り、上野公園(不忍池)の真下を通って田端付近で地上に出るというものでしたが、この「不忍池の真下を通る」というのが、大変な物議を醸してしまったのです。
京成の話題を取り上げたときに書いていますが、実は戦前に京成が上野公園駅を地下に建設した際、不忍池の水が涸れかかったことがありました。そこで、当時の東京都知事美濃部亮吉が当初計画に難色を示します。
また、上野・浅草地区の住民や商店主などから、新幹線の素通りは地元を寂れさせるとして、国鉄に対し「新幹線の上野駅」の建設を働き掛ける運動が巻き起こりました。
国鉄は当初、「新幹線の上野駅」は建設費の増大や建設の困難を理由に否定的な態度だったのですが、その後東海道新幹線の輸送力確保のために14・15番ホームを東海道用に転用したため、東北新幹線のホームの確保が難しくなりました。そこで、国鉄は、東京駅を補完するサブターミナルとして上野駅の必要性を認識し、計画が変更され、上野駅が建設されることになりました。
この工事は、在来線の19・20番ホームを潰し新幹線ホームへの連絡通路に充て、その真下に新幹線の駅を構築するというもので、かなりの難工事だったそうです。工事の最中、地下鉄銀座線の駅施設をまるごと仮受けして工事を進めましたが、その様子はテレビ番組でも紹介されたことがあり、管理人も見たことがあります。地下の巨大な空洞の中に、仮受けされた銀座線の駅の構造物が見えましたが、あれは日本の土木技術の物凄さを、これでもかというくらい雄弁に語った映像だったと思います。
なお、涸れることが懸念された不忍池ですが、幸いにしてそのようなことはなく、逆に上野駅から湧き上がる地下水を不忍池に導水し、水質改善に役立てています。上野駅は地下水の水圧がすさまじく、そのままだと地下水の押し上げる力で駅が浮き上がっていくため、それを防ぐために3万トンの鉄の塊が、重石として上野駅構内に置かれているのだとか。

そして、上野開業に伴うトピックは、停車駅の少ない「スーパーやまびこ」が登場したことです。
これまでの「やまびこ」は、大宮を出ると宇都宮・郡山・福島と仙台以遠の各駅に停車していましたが、上野-仙台間の停車駅を大宮・福島(一部列車は宇都宮・郡山)と2駅に絞り、仙台-盛岡間を無停車にするなど、思い切った速達化を図っています。これによって、上野-仙台間は1時間53分、上野-盛岡は2時間45分となりました(いずれも最速列車)。これには停車駅削減のほか、最高速度を240km/hに向上したことも大いに寄与しています。この改正に合わせて、高速対応の200系1000番代を追加投入しています(後に在来車の一部も改造で対応)。この改正まで、宇都宮・郡山・福島及び仙台-盛岡間の中間駅には、通過線がありながらそこを通過していく定期営業列車がありませんでしたが、上野開業でいよいよ本領を発揮した感があります。上越系統でも、それまで全列車停車だった高崎や長岡を通過する列車が現れ、こちらも速達性を重視した列車が登場しています。こちらは大宮・高崎(又は長岡)のみの停車で、最高速度は210km/hのままながら、停車駅を減らして所要時間を短縮、上野-新潟間が最速1時間53分となっています。
またこの改正では、東北新幹線に早くも新駅が登場、水沢江刺と新花巻がそれぞれ開業しています。これらの駅は立地自治体などが設置費用を負担した「請願駅」で、このような形の新駅はこれ以後、東海道・山陽新幹線でも増えていくことになります。

昭和62(1987)年4月1日、長らく親しまれた国鉄は民営化され、新生JRが発足します。東北・上越新幹線は「JR東日本」の所属となりましたが、路盤設備などは当初「新幹線鉄道保有機構」なる法人が所有しJR各社がリースを受ける形を取っていました。このような形態は、恐らくJR各社にのしかかる固定資産税の減免やリース料の税額控除などを視野に入れたものと思われますが、流石に「自社の持ち物」でなければ思うような保守点検ができず、その点では桎梏となりました。そのためか、この方式は4年後の平成3(1991)年に解消されています。

次回は上野-東京間の開業までを取り上げます。

-その7へ続く-


-その5(№2202.)から続く-