昭和57(1982)年6月に東北新幹線が先行開業、その5ヶ月後に上越新幹線が開業するわけですが、この時点で東京-上野-大宮間は未開業でした。
そこで難問が持ち上がります。

上野から大宮まで、新幹線のお客をどうやって運ぶか?

いうまでもないことですが、当時は湘南新宿ラインはもちろん、埼京線すら影も形もありません。埼京線の開業は、新幹線が上野に達した後、昭和60(1985)年9月のことですから。国鉄は当初、連絡用快速列車を京浜東北線に運転することも考えていましたが、実現しませんでした。京浜東北線は通勤通学路線であり、ダイヤに余裕がないことが理由だったそうです。それ以外にも、追い越しが可能な駅が、上野以北では東十条と南浦和くらいしかなく、高速運転ができないことも理由にあったと思われます。

結局、国鉄が実行したのは、新幹線の特急券を持ってないと乗車できない、専用の「連絡列車」を東北線に運転することでした。この連絡列車は「新幹線リレー号」と名付けられ、大宮を発車する「やまびこ」「あおば」の時間に合わせて運転されました。ただし6月の開業当初は、それまでの特急列車のダイヤをそのまま転用していました。一例として、開業前の上野6時33分発「やまびこ1号」のダイヤが、そのまま「リレー号」に転用されたりしています。
使用される車両は、前年に「踊り子」に投入した185系でした。しかし、車体や内装などが同じなだけで、以下の点が「踊り子」用と異なっていました。

1 編成は1編成グリーン車1両組み込みの7連。「リレー号」には2本併結の14連で使用。
2 碓氷峠通過対策として台枠を強化、さらに長野・新潟方面への運転を考慮し、耐寒耐雪装備も追加。
3 アイボリーに緑の帯は「踊り子」と同じだ、帯は斜めラインではなく窓下に通したオーソドックスなデザイン。これは、新幹線車両とのデザイン上の関連性を持たせたものだといわれている。
4 車号は「踊り子」用の0番代に対し、200番代とする。

編成の単位が7連とされたのは、置き換え対象だった165系の「なすの」(上野-黒磯)「ゆけむり」(上野-水上)などの、上野発着の中距離急行の編成に合わせたもので、投入と同時に165系編成を置き換え、昭和57(1982)年11月から、特急として走り始めています。
この車両も「踊り子」用と同じ顔ですから、正面にヘッドマークがあります。では「リレー号」にどういう表示がされたかというと、「新幹線リレー号」ではなく、何と「上野-大宮 新幹線連絡専用」という、よく言えばいかめしい、悪く言えば味も素気もない表示がなされていました。ただ、旅客案内上は「新幹線リレー号」で通しており、時刻表の記載もそうなっていました。具体的には「新幹線リレー○号」となっていましたが、○の号数の部分は、新幹線列車のそれと合わせられていたわけではなく、単純に出発順に号数を振っていました。

そしてこの列車の最も特徴的なところは、14両の編成中に2両組み込まれたグリーン車について、グリーン料金を徴収しないという取り扱いをしたことです。ただし、全くの自由乗車とはせず、この車両に乗れる乗客を①新幹線のグリーン券を所持する乗客、②高齢者・身障者及びその同行者に限定しました。これは「優先席」、当時の「シルバーシート」と似た発想だったためか、この車両は「シルバーカー」と案内されていました。当時の時刻表にも、その旨の記載があります。
さらに、この列車には乗客の案内役として、「リレーガール」なる女性アテンダントも乗務し、新幹線接続輸送に華を添えています。このような試みは、かつて国鉄の看板列車だった特急「つばめ」「はと」の「つばめガール」「はとガール」以来となる画期的なものでした。

このように、「新幹線リレー号」の専用車両として、185系200番代が用意されたわけですが、では使用車両がこれだけだったのかといえば、実はそうではありません。
6月の東北新幹線開業時には、上りの1本を、何と東北急行に使用している、仙台の455系12連(グリーン車2両)で運転していました。その他には、115系を使用した列車が1本あったそうですが、どの時間帯だったのかは分かりません。当時、455系は勿論、115系も方向幕は使用せずサボ(行先表示板)を使用していましたが、これらの車両を「新幹線リレー号」に充当するため、「新幹線リレー号 上野-大宮」と書かれたサボ(しかも新幹線200系電車の顔のイラスト入り)が用意されました。このサボは、11月に上越新幹線が開業した際、「新幹線リレー号」が全て185系に統一されてお役御免となっています。
個人的な話ですが、管理人はこの「新幹線リレー号」のサボ、とある鉄道用品店で見たことがあるんですよね。本物かレプリカなのかは覚えていませんが、いずれにしても使用期間が半年にも満たず、かなりの珍品であることは確かだと思います。
それにしても、交直流急行型電車が「新幹線リレー号」のサボを側面に掲げて走るとは! 乗ってみたかったですが、当時はお金も行動力もない中学生ですから、仕方ありません。

昭和57年11月に上越新幹線が開業すると、「新幹線リレー号」は使用車両を185系に統一、さらにパターンダイヤに組み込んで上野-大宮間を30分ヘッドで運転するように改められました。それでも朝の時間帯にはリレー号の運転はなく、この時間は115系の普通電車が接続するようになっていました。これは、朝の通勤ラッシュの時間帯にリレー号を割り込ませることができなかったためです。
このような、「大宮乗り換え」は昭和60(1985)年3月まで続くのですが、そのときに見られたのが、「大宮ダッシュ」。これは、新幹線の自由席に座ることを狙って、「リレー号」から下車した乗客が一目散に階段や連絡通路を走っていくというものですが、ああいうのは1人が走り出すともうダメですよね。当時は大宮駅に「駅ナカ商店街」などなく、連絡通路が広かったので、あまり問題にならなかったのでしょう。

「新幹線リレー号」がせっせと新幹線利用客を運んでいる間に、国鉄は大宮以南の工事を進め、そして昭和60年3月、遂に上野に達することになります。
新幹線が上野に達してしまえば、「新幹線リレー号」はお役御免。新幹線接続列車の大役を果たし、上野開業の前日に運行を終えました。これによって余剰となった185系は、「踊り子」に転用されることになり、田町へ転属しています。そしてもちろん「リレーガール」も消滅。その後、国鉄・JRの定期列車(ジョイフルトレイン的なものを除く)で女性アテンダントを乗務させるようになるのは、「リレー号」消滅から6年後の昭和63(1988)年、JR九州の「ハイパーレディ」ではなかったかと思います。

次回は、昭和60年の上野開業のトピックを取り上げます。

-その6(№2209.)へ続く-