-その3(№2191.)から続く-

「毎週火曜日更新」を標榜しておきながら、本業の関係でかないませんでした。来週は火曜日に次回をアップいたします。
今回は上越新幹線の大宮開業までのお話です。

上越新幹線は、(新宿・東京)-大宮-新潟間の路線として、全国新幹線鉄道整備法成立後の昭和46(1971)年に着工されました。当初、国鉄は5年程度での開業を見込んでいたそうですが、その後程なく発生したオイルショックや物価の高騰、山岳地帯を貫くことによる難工事、雪対策のための重装備化、これらの要因により建設コストが増大したばかりか、工事の遅れも顕著になっていきました。
とりわけ大宮以南の住民パワーの問題は前回触れたとおりですが(この問題は後で取り上げます)、その他には上越新幹線特有の問題もありました。それが難工事なのですが、上越新幹線は三国山脈を貫いて越後平野へ抜けるため、必然的に長大なトンネルを掘削せざるを得ません。その象徴となるのが、開通当時世界一の長さを誇った大清水トンネル(全長22,221m)ですが、工事が最も難航したのが、高崎-上毛高原間にある中山トンネルです。この中山トンネルでは、2度にわたる出水事故が起き、遂にはルート変更まで余儀なくされました。現在の中山トンネルの中には、当時想定していなかった半径1600mという、新幹線にしては急な曲線が存在し、列車はそこを減速して通過しています。
中山トンネルの問題は、それまでの高速新線での「線形優先」に反省を迫り、その後は地質調査などに鑑み、建設の容易さと距離の短さや勾配の緩さなどを勘案してルートが決定されるようになりました。これは、その後の新幹線における建設費の節減や、建設作業員の安全確保に大きく寄与しています。
また、全国有数の豪雪地帯を通過するため、東海道のような盛土軌道は用いず、高架橋の上にコンクリの道床を作る「スラブ軌道」とし、さらに温水で雪を融かす消雪パイプを装備、凍結が危惧される分岐器にはヒーターを仕込むなどして、雪への備えを厳重にしています。そのため、上越新幹線では開業以来、大雪に起因するダイヤの乱れはほとんどありません。

さて、何とか中山トンネルが完成したものの、東北新幹線との同時開業は叶わず、しかも東京都内には通じない大宮までの開業となり、いかにも「暫定開業」の体ですが、当時の状況から、それはやむを得なかったのでしょう。
そんなわけで、上越新幹線は着工から11年後の昭和57(1982)年11月15日に開業しました。列車は速達型(高崎・長岡停車が基本。その他イレギュラーなパターンあり)と各駅停車型に分けて命名され、前者が「あさひ」、後者が「とき」となりました。上越でも列車名は公募したのですが、1位は「とき」、2位は「ゆきぐに(雪国)」でした。では「あさひ」はというと、何と18位。この愛称については、「サンライズ(日の出)の朝日」だという説明が国鉄当局からありました。しかし、日本海側では朝日は山の向こうからしか出ないので、この愛称には愛好家ばかりか、沿線住民からも違和感を持たれたようです。なお、この愛称については、新潟・山形県境にある「朝日山地」由来という説もあります。
「とき」は上野-新潟間を走っていた特急列車の名前で、もはや説明不要ですね。

上越も東北同様、上位になった公募列車名を採用しなかったのですが、その理由として言われていたのは、2位の「ゆきぐに」ではスピード感がなく、しかも雪には少なからずマイナスイメージもあるため、避けられたといわれています。しかしそれなら、当時新潟以遠の酒田・秋田方面へ走っていた「いなほ」の愛称を使えばよかったのでは…そう思ったのは当時の管理人だけでしょうか。
上越新幹線開業と同時に、在来線特急「とき」「はくたか」(長岡経由上野-金沢)が全廃、「いなほ」(羽越線経由上野-秋田・青森)は1往復を残して廃止されました。1往復だけ残った「いなほ」は「鳥海」と改称して存置されましたが、驚いたのは「つばさ」や「やまばと」で外されてしまった食堂車が残存したことです。これは「鳥海」の使用編成が大阪-青森間の「白鳥」と共通運用だったことが理由でした。また上越新幹線開業で「とき」が全廃されたことで、特急型電車の始祖・181系がほぼ全車退役しています。

その他注目すべきことは、ビュフェの運営業者。東北は日食(日本食堂)だけでしたが、上越は聚楽も仲間入りしました。聚楽第といえば、181系時代の「とき」の食堂車を担当、昭和53(1978)年まで親しまれました。それが4年を経て列車食堂営業にカムバックしたことになります。複数業者になれば、東海道のように列車を選ぶ楽しみができる(当時東海道・山陽新幹線の食堂車・ビュフェは4つの業者が運営していた)…と言いたいところですが、列車本数が圧倒的に多い東海道筋とは異なり、上越は列車本数が少なく、そのために選択の余地があまりなかったのは、残念なことでした。

ところで、上越新幹線といえば、沿線出身の大物政治家・田中角栄氏との関係が取りざたされ、「政治新幹線」「角栄新幹線」などと揶揄されました。角栄氏との関係を抜きにしても、採算性を疑問視する声も少なからず上がりました。東北・上越新幹線は東海道・山陽に比べ沿線人口が少なかったからです。しかも建設費が2兆7000億円(東北含む)。そもそも建設費の償却すら覚束ないのでは、とすら心配される始末。
しかし、その心配は杞憂に終わりました。やはり冬季の安定輸送の実績が大きく物を言い、乗客数は開業以来概ね順調に推移しています。「採算が取れない」事態に陥ったことはありません。開業から約3年後の昭和60(1985)年、上越新幹線の輸送人員は1億人を突破しますが、これは東海道新幹線開業のときとほぼ同じペースだとか。

最後に。
冒頭に挙げた、上越新幹線の区間「(新宿・東京)-大宮-新潟」について。これは別に間違いではなく、当時は新宿駅を作る計画が本当にあったのです。
大宮には東北・上越新幹線の他、将来的には北陸新幹線や北海道新幹線の列車が発着することが予想され、そうなれば大宮以南の線路容量が限界に達してしまいます。そこで列車が集中しすぎないように、上越新幹線を新宿駅に発着させようという計画が立てられたわけです。
しかし実際には、大宮以南の沿線住民による反対運動が猖獗を極めたことや、建設費が嵩んだことなどにより、「新幹線の新宿駅」構想は忘れ去られていきました。現在、新宿-代々木の中間に「タカシマヤタイムズスクエア」のビルが建っていますが、あそこが「新幹線の新宿駅」の予定地だった場所です。もっとも計画が完全に頓挫・消滅したかといえば、必ずしもそうでもない。実は、近くを通る地下鉄副都心線のトンネルは、新幹線をよけて通れるようになっています。将来北海道新幹線や北陸新幹線が開業し、東京-大宮間がパンク状態になった暁には、「新幹線の新宿駅」が陽の目を見るのでしょう。

次回と次々回は、上野-大宮間の新幹線連絡輸送のお話と、新幹線上野開業のお話を。

-その5に続く-