今回は東北新幹線の開業までの歩みを取り上げます。
東北新幹線は、工事に着手されたのが昭和46(1971)年11月28日で、その8年後の昭和54(1979)年には小山付近で試験車両が走行を始め(小山試験線)、さらにその3年後、大宮-盛岡間が開業しています。したがって、工事のペースはそれほど遅いものではありませんが、新青森開業が平成22(2010)年12月ですから、着工から全線開通まで実に39年を費やしています。もっともこれは、東京~盛岡間と盛岡以遠が別の計画に基づいていたためでもあるのですが。

東北新幹線の建設当時、新幹線仙台駅の建設のため、当時多数設定されていた上野-青森間の夜行列車が、貨物線を迂回して仙台駅を通らないため、仙台駅の1つ手前の長町駅に停車し、そこで客扱いをしていたことがあります(曜日限定)。管理人はリアルで見知っていたわけではありませんが、当時の時刻表にそのような記載があったのを覚えています。確か深夜の停車にもかかわらず、長町駅からちゃんと代行バスすら用意されていましたから。この事実は、今にして思えば隔世の感があります。やはり、当時の夜行列車の社会的な位置付けが、今とは比べものにならないくらい重要だったのでしょうね。

東北新幹線は、きわめて快調に建設が進んだのですが、ネックとなったのは大宮-上野-東京間でした。具体的に言うと以下のとおりです。

1 大宮駅の問題
2 上野駅の問題
3 沿線住民の反対運動

これらの内容については上野開業の回で詳しく触れることにしますが、いずれにしても、こういう厄介な事情が持ち上がったせいで、新幹線の東京地区乗り入れが遅れに遅れてしまいます。
結局、国鉄は昭和56(1981)年の段階で、上野-盛岡間の開業を諦め、大宮以北の暫定開業を検討し始めます。当時は上越新幹線も大宮-新潟間で工事が進んでいましたが、トンネル掘削事故などがあったことから(この顛末は次回で取り上げます)、両者の足並みを揃えることはできず、遂に両者は分離開業となります。東北新幹線が昭和57(1982)年6月23日、上越新幹線が同年11月15日の開業とされました。上野-大宮間は「新幹線リレー号」という専用車両による接続列車を運転し、新幹線の乗客を大宮駅に運ぶことになります。

列車ダイヤは6月の暫定開業時は、宇都宮・郡山・福島・仙台と仙台以遠各駅停車の「ひかり」タイプ4往復・全区間各駅停車の「こだま」タイプ6往復とされ、同数の在来線特急「やまびこ」(上野-盛岡)「ひばり」(上野-仙台)が廃止されています。
面白かったのは、このとき青森行きの「はつかり」や一部の「ひばり」などが残存していたことです。やはりこの時点では、あくまでも「暫定開業」ということです。なぜこんな不完全な形での開業をしたかといえば、やはり当時の国鉄の財政が危機的な状況にあるということが大きかったのではないかと思います。本来であれば両者とも11月15日に開業させるという選択肢もあっておかしくないのですが、あえてそれをやらなかったのは、開業できるならさっさと開業させて増収に結び付けようという考えがあったのでしょう。

そして注目された列車名ですが、当初東海道・山陽で運転されていた「ひかり」「こだま」の号数を違えるとか、あるいは「東北ひかり」「上越こだま」のように路線名を冠するかという案もありましたが、結局東海道・山陽系とは別の列車名をつけることに落ち着き、東北・上越とも一般公募となりました。
このとき東北でのトップ得票に輝いたのが「みちのく」(当時は上野-青森間常磐線経由の特急として現役だった)でしたが、この愛称は青森県のイメージが強いためか採用されず、2位だった「やまびこ」が採用されました。そして「こだま」タイプには仙台の青葉城をイメージした「あおば」が採用されました。「あおば」は先代と秋田を北上線経由で結んだ気動車特急の名称ですが、新幹線に栄転したことになります。
余談ですが、列車などの愛称名公募って何のためにやるんでしょうね。だって、得票数1位になった名前が採用されたことって、管理人の知る限り数えるほどしかありませんからね。まだ自由投票制ならいいですが、これが選択肢の限定された○択だったりすると、最初から「アリバイ作り」の臭いすら漂ってくるときもあります。

ちなみに、最初からの本格開業であれば、山陽新幹線の博多開業のときのように、在来線の昼行優等列車が全て廃止されるはずですから、愛称も「やまびこ」「ひばり」になってもおかしくなかったのですが、「ひばり」が11月まで残存してしまったことから、その後の登場の機会がないのは残念なことです。そういえば「ひばり」が消えて今年で30年。特急の愛称としては、昭和50(1975)年に消えた「はと」は現在で37年が経過しますが、「ひばり」の空白はそれに次ぐものとなっています。

そして昭和57(1982)年11月15日、東北新幹線が本格開業となります。このとき、「はつかり」は盛岡-青森間に短縮、「ひばり」「みちのく」は全廃されたのに対し、奥羽線や磐越西線へ直通する「つばさ」「やまばと」「あいづ」は一部残されました。これは、大宮と郡山・福島での2度の乗り換えを嫌う乗客に配慮したためですが、「つばさ」「あいづ」は近年まで残っていました。
ただし、改正前に「つばさ」「やまばと」にあった食堂車は抜かれ、編成も12連から9連へと短くなってしまったのは、残念なことでした。「はつかり」は新幹線接続特急として運転を継続しますが、やはり食堂車なしの9連(583系13連も残存)となってしまいます。そのほか、盛岡接続の秋田行き特急として、同名の急行を格上げ・増発した「たざわ」が485系のモノクラス6連で登場し(後にグリーン席を設置)、後の「こまち」の源流となります。

最後に「ひかりタイプ」の「やまびこ」の停車駅ですが、全列車停車型の配線となっている駅は中間駅では仙台駅だけだったにもかかわらず、宇都宮・郡山・福島及び仙台-盛岡間の駅を通過する列車は設定されませんでした。これは11月の本格開業後も変わらず、これらの駅を通過する列車の登場は、上野に達する昭和60(1985)年3月まで待つことになります。

以上は運転の面ですが、路線その他ハード面については、徹底した雪対策が施されています。車両面への手当てもそうですが、東北では高架橋に雪が溜まらない構造を採用し、多少積雪があっても車両ではねのけるようになっています。このあたりは、雪の量が桁違いの上越とは異なるところです。
ただ、当時の200系は北海道新幹線での使用を考慮に入れていたようで、そのために耐寒・耐雪装備が過剰になり過ぎ、そのための重量増や定員減の問題もありました。そこで、後年JR東日本が新幹線車両を投入する際には、耐寒・耐雪装備は200系よりも簡略化されているそうです(これは、いただいたコメントで教えていただきました。ひかりん(みらくん)様、ありがとうございます!)。

何とか開業した東北新幹線ですが、乗り換えのハンディがあるとはいえ、そこはやはり新幹線。乗客は順調に増えていきました。
次回は、上越新幹線の開業までの歩みを取り上げます。



-その4(№2198.)に続く-