-その1(№2174.)から続く- 

前回は東北・上越新幹線の建設が決まった経緯を取り上げましたが、今回はこれら新幹線の「雪対策」について取り上げます。

東北・上越新幹線は昭和46(1971)年に着工されますが、温暖な東海道・山陽とはまるで異なる地域を走る路線であることから、寒さ・雪の対策には特に意が用いられました。着工後、全国新幹線網計画なるものも華々しくぶち上げられ、豪雪地帯の上越だけではなく、寒冷な北海道への直通も視野に、車両の開発や路線の規格決定が進められることになります。
まず、スペックは東海道と同じ交流25000Vとされましたが、周波数が東海道の60Hzとは異なり、50Hzとされました。これは、日本の商用交流電源の周波数が富士川を境にそれ以西が60Hz、それ以東が50Hzとなっていたためです。ちなみに、東海道新幹線は東京まで25000V・60Hzですが、富士川以東では変電所で周波数を変換しています。この周波数の違いは、後に東海道と東北・上越の直通運転を困難ならしめる原因のひとつともなりました。

国鉄はこのころ、全国新幹線網計画に基づき、両方の周波数の区間を運転でき、しかも車内は寝台車や食堂車を試作した961形という6両編成の車両を昭和48(1973)年に試作、まずは山陽新幹線で試験運転が行われ、その後東北新幹線の小山試験線へ移動し、そこで試験運転に供されています。注目されるのは、日本海側などの豪雪地帯や北海道などの寒冷地での使用を想定し、雪切室(機器冷却のため外気を取り込む際、一緒に吸い込んだ雪を分離して外気だけを取り込む)を設けたことです。「雪に強い新幹線」を現実のものにすべく、昭和51(1976)年ころから、北海道地区で旧型客車を使用した新幹線向けの実験が行われていましたが(当時の鉄道ピクトリアル誌にそのときの写真が載っている)、この結果が反映されているとみて間違いないのでしょう。ただし、後述する962形に比べれば、これら雪対策は不徹底な感は否めませんでした。
「雪に強い新幹線」については、関ケ原地区で散々苦しめられたトラウマがあるからだと言って過言ではありません。東海道新幹線はバラスト軌道になっていましたが、関ケ原地区で巻き上げた雪が車体に付着して凍り、それが温暖な区間で融けて線路に落ち、バラストを跳ね上げ、それが原因で車体などが破損するという事故も起こっていました。また、雪を巻き上げて機器がやられて走行不能という事態もたびたび起こっていました。東北や上越でこんなことではお話になりませんから、その対策は徹底的に講じられています。

前後しますが、昭和54(1979)年に一部区間の先行開業の形で埼玉県久喜市付近~小山駅付近の路線を完成させ、この区間が「小山試験線」として車両その他の試験に供されることになりました。ここに961形が入線して各種試験を実施したわけですが、これにより、961形は東海道・山陽新幹線と東北新幹線の両方を走行したことになります。この快挙は、後にも先にも961形だけです。
なお、東海道新幹線がバラスト軌道で建設されたのに対し、東北・上越新幹線は雪を貯めないようにコンクリート軌道(スラブ軌道)を採用し、東北では雪が積もらない構造を採用、上越では融雪パイプを設け温水で雪を融かす方式をとっています。ただ、高速運転や雪対策を加味したために建設コストが跳ね上がり、これは禍根を残すことともなりました。

上記のように、961形は一応耐寒耐雪装備を持っていたものの、あくまで試作的要素が強かったのか、より東北・上越地区に特化した試作車を製造しようということになりました。そこで、昭和54(1979)年に962形6両1編成が製造されています。
962形が注目されるのは、耐寒耐雪装備を徹底したことです。ざっと挙げれば、

・雪切室の設置。
・ボディーマウント構造の採用。
・先頭部スカート先端にはスノープラウ(雪かき)を設ける。

といったところです。このうち、ボディーマウント構造は床下まで一体の車体を構成し、客室の床と床下の隙間に機器を搭載する方式で、これは機器を雪から守るために採用されました。また重量が増加したため、車体を軽量化すべくアルミ合金を採用しています。
また、962形はそれまでの961形や0系ともことなる独自の配色を採用しました。961形や0系は、アイボリーをベースに窓周りなどをブルーとしたものですが、962形はブルーではなくグリーンを採用しました。これは、東北・上越の豊かな自然をイメージしたものとも、雪の中で寒々しく見えないようにブルーを採用しなかったともいわれています。ただ、後年登場する営業用車両(200系)よりはグリーンがくすんでおり、その点に違いがありました。
さらに内装も試作が行われ、当時0系の転換クロスシートが不評だったことから、リクライニングシートを装備し、回転できない3人掛けの側の座席配置を違えてテストしています。結局、営業用車両では客室中央を境に3人掛け席が背中合わせになる「集団離反形」が採用されました。

その間、国鉄の財政悪化や不毛な労使対立など、国鉄をめぐる情勢は厳しさを増しますが、東北・上越新幹線の工事はその間も続けられ、開業を2年前に控えた昭和55(1980)年には、遂に営業運転を前提とした車両、200系が登場します。
200系は962形をベースに、ボディーマウント構造・雪切室設置といった寒冷地対応の装備が施された車両で、アルミ合金製の車体も962形と同じでした。先頭車の風貌は0系と瓜二つでしたが、0系よりは鼻筋が伸びた精悍な表情になっています。そして車体色も、962形譲りのアイボリーとグリーンとされましたが、グリーンは962形のそれよりも明度が上がったライトグリーンとなり、962形にあった鈍重さが払拭され、より明朗な感じになっています。
車種構成は、0系譲りの全電動車方式とされ、両先頭車と中間車、ビュッフェ合造車、グリーン車が作られました。普通車は962形で試行された「集団離反形」ですが、グリーン車はワインレッドの腰掛・マホガニー調の壁など非常に重厚で、優等車にふさわしい内装となっています。ビュッフェ車は椅子を設けない立食形式ですが、速度計が0系のアナログ式から数字を表示するデジタル式になったのが注目されました。

…とこのように、軌道・車両の両面で万全な雪対策が施されたことになります。
実際、東北・上越新幹線の積雪による運休や遅延はほぼ皆無となり、在来線に比べても格段に安定した輸送を実現しました。

次回は、東北新幹線開業までの道程を取り上げます。

-その3に続く-