しばらくご無沙汰しておりました。

管理人の本業が忙しかったのももちろんあるのですが、新快速ネタに続く次のネタを、新幹線ネタと地下鉄ネタのどっちにするか悩んでいたのも事実です。

いろいろ考えましたが、来月23日には東北新幹線開業30周年となりますし、地下鉄ネタも恐らく年末にかけてからの方が、ネタが出揃うであろうことから、新幹線ネタを優先することにいたしました。


今年は、東日本の新幹線にとってはメモリアルな年になります。


・東北・上越新幹線開業30周年(東海道・山陽以外初の新幹線)
・山形新幹線開業20周年(初のミニ新幹線)
・秋田・長野新幹線開業15周年(将来の北陸新幹線への布石)
・東北新幹線八戸開業10周年(初の青森県到達)


このようにメモリアルなネタが目白押しなわけですが、今回は第1回として、東北・上越新幹線の建設の経緯について取り上げます。


昭和40年代。

昭和39(1964)年に開業した東海道新幹線は、世界的にも例のない大量・高速輸送を実現させ、当時の欧米に蔓延していた「鉄道斜陽論」を木っ端微塵にしてしまいました。新幹線の功績は枚挙に暇がありませんが、こと海外への影響を見る限り、「鉄道は決して将来性が見込めない分野ではない」ということを世界に知らしめたことが、新幹線の一番の功績ではなかったか。私はそのように思います。東海道新幹線開業の17年後の昭和56(1981)年、フランスでTGV(Train Grand Vitasse=超高速列車)が走り出しますが、これはフランスが新幹線鉄道のシステムの得失を徹底的に研究して生み出したシステムだということです。

翻って我が日本。

新幹線の建設当時、世論は実は新幹線に対しては冷ややかでした。「東京-大阪3時間」という、当時の特急「こだま」などの半分以下の所要時間で走れるのかという懐疑もさることながら、甚だしきは万里の長城や戦艦大和と並列され「世界の三馬鹿事業」などと陰口を叩かれていたほどです。


しかしながら、いざ開業してみると、利用者はその高速性と快適性に魅了され、それまでの冷ややかな見方が一変してしまいました。当然のことながら、新幹線の利用客数は順調に伸びていきます。

この顛末を見ていた政治家や官僚は、「新幹線を全国に広げればその経済効果が日本中に拡散される」と考えるに至りました。新幹線の「高速・大量・安定輸送」の威力と魔力を、まざまざと思い知ったわけです。

そこで、東海道のときは単なる在来線の線増と考えられていた新幹線鉄道を、社会的インフラ整備のための国家プロジェクトと位置付け、その目的のために「全国新幹線鉄道整備法」が制定されました。この法律に基づき、以下の路線が整備されることになりました(同法第4条第1項の規定による運輸省告示)。


・東北新幹線 東京-盛岡
・上越新幹線 大宮-新潟
・成田新幹線 東京-成田空港


「全国新幹線鉄道整備法」は、その後第7条による整備計画を決定し、これによって建設された路線が長野新幹線や東北新幹線盛岡-新青森間となります。なお、このときの計画には、九州新幹線なども含まれています。

巷間いわゆる「整備新幹線」というときは、長野新幹線など整備計画に基づく路線を指し、東北(東京-盛岡)・上越・成田は含まれていません。また、当時開業していた東海道新幹線と、建設に着手していた山陽新幹線は、この法律に基づいて建設されたものとみなすという取り扱いをしています。

さらに、「新幹線とは何か」即ち新幹線鉄道の定義もこの法律によって行われました。それによると、「主たる区間を列車が二百キロメートル毎時以上の高速度で走行できる幹線鉄道」を「新幹線鉄道」と定義しています(同法第2条)。これによって、新幹線は在来線から独立した鉄道とされるのが法的にも明らかにされたのですが、「二百キロメートル毎時以上の高速度」ということですから、そのスピードで走れない山形・秋田の両新幹線は、法的には新幹線ではないということになります。両新幹線が「新幹線」と称しているのは、多分に旅客案内上の便宜と沿線イメージによるところが大きいと思われます。


この告示がなされたころは、通商産業大臣(当時)を務め後に首相となる田中角栄氏が、党内など政治の世界はもちろん、郵政や運輸などの官僚組織にも大きな影響力を持っていました。

そこで面白い逸話があります。

官僚たちが田中氏たち当時の与党の実力者に対し、東海道・山陽に続く新幹線として東北・成田の両新幹線を提案しました。すると角栄氏は「重要なところが抜けているだろう」と言って、おもむろに赤いフェルトペンを手に取り、日本地図の上に東京から新潟に向かって赤い太線を引いた、と。

この逸話が本当かどうかは分かりません。田中氏は新潟県の出身であり、冬季に交通が途絶するエリアも当時は多かったことから、このようなインフラの整備に血道を上げていたことは事実ですし、行動力や決断力がずば抜けていたらしいですから、そのあたりのイメージが、このような逸話を作ってしまったのだと思います。


ともあれ、昭和46(1971)年には上記3線が新たに建設すべき新幹線路線として、工事に着手されることになります。そのときのスローガンは「ひかりは北へ」。当時は高速列車の代名詞だった「ひかり号」。その「ひかり号」を東北に、上越に。東北・上越沿線の皆さんの熱意と希望が、このスローガンに込められているように思います。

しかし、温暖な東海道とは異なり、東北・上越新幹線は寒冷地や豪雪地帯を走るわけで、そこには当然寒さや雪に対する対策が求められます。実は東海道でも関が原地区の雪には散々悩まされたのですが、その経験がこれから建設する両新幹線には遺憾なくフィードバックされることになりました。

次回は、そのあたりのお話を。


-その2へ続く-


※ 当記事は05/24付の投稿とします。また、第2回は来週29日(火曜日)にアップする予定です。