夏が来れば思い出す | 非常勤講師はつらいよ―私学非正規教員の本音と生活向上作戦

夏が来れば思い出す

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 今年も終戦の日またやって来ました。毎年この時期になると、
8/6広島原爆に次いで8/9長崎原爆、そして8/15終戦の日と、戦争関連の日が続き、戦争特番やニュースでも特集が組まれたりします。
また、これらに加え、8/12日航機墜落事故の日が挟まれるため、この時期は特に、人々の死を悼み命や平和について最も考えさせられます。
毎年のように戦争にまつわる映画やドラマもテレビで放送されます。
私達が子供の頃、母は「かわいそうなのは見たくない」と言っていましたが、
「でも、そういう気持ちになって戦争はダメと思うのは重要」と返すと、最近は納得します。
今年は、話題の曲「千の風になって」のドラマプロジェクトがありましたが、3シリーズのうち2つが戦争関連のものでした。「ぞうのはな子」と「はだしのゲン」、どちらも有名な物語です。前者は、小学校国語や中学英語の教科書等どこかで聞きますし、後者は子供の頃アニメ映画で見ました。
やはり涙なしには見られないのですが、元と弟役の子供二人の演技はうまかったです!

年々、戦争の悲劇を生で語り継ぐ方々が高齢になり減少していくと共に、戦争を知らない世代が増えていきます(最近では、戦争どころか昭和を知らない子供達なのです)。それにつれ、日本の記憶から薄らぎつつあるようにも思いますが、様々な資料を通して、戦争を体験した方々の思いを私達が受け継ぎ、更に下の世代に伝えていかねば、と思うのであります。
以下に、ネットで見つけた記事を紹介します。この方の最後の言葉にはびっくりです。

 加えて私の場合、父方の祖母を思い出させる時期でもあります。
それ以外の祖父母は以外、私達の生まれる前に既にこの世に居らず、唯一存命だったこの祖母も、自分の事しか考えない人で、私達を可愛がってくれたり話をしてくれたりという経験は全くありません。それどころか周囲には嫌がらせさえしていたので、他の親族同様、私も祖母は嫌いでした。
娘達(私から見ればおば)の家をたらい回しにされた挙句、私が小学校1年の冬に我が家に来て、19歳の時に我が家で看取りました。享年86、8/1の祖母の誕生日を目前にした7月終わりの時でした。
その間の出来事(明るい内容ではないです)は省略しますが、当時は嫌で仕方なかった祖母とはいえ、最近では命日や誕生日でもある、7月末~8月にかけては、ふと祖母の事が思い出されるのです。

 そのようなわけでは、世の中は夏休みで楽しい(?)季節であると同時に、亡き人々に思い起こし、しみじみと考えさせれるのであります。


 連日のたくさんのコメントありがとうございます。個別にお返事で出来ない事、重ね重ね申し訳ありません。
ただ、特にご要望があったり、こちらで気になったコメントに関しては、折を見て本文中で取り上げていく予定でいます。あゆみさんからのご質問(専任と講師の違い)についても、いずれブログ上で取り上げるいましたので、近いうちにお答えする予定です。おっさん中学教師氏にも申し上げたい事がありますから。
複数の方から、励ましのお言葉や、このブログに「考えさせられる」とおっしゃって頂け、大変嬉しく思います。


 ◇『8・15迎える度、戦争の記憶がよみがえる』

 「あのころの空の色は今とは全然違う。もっと真っ青だった」。そう言って佐藤直一郎さん(77)=秋田市=は夏空を見上げた。8月15日を迎える度に、戦争の記憶がよみがえる。特別攻撃隊(特攻隊)を志願し、死と隣り合わせで生きた日々が鮮やかな青い空の記憶とともに、今も消えずに残っている。

 戦闘機の操縦士を目指した15歳の「軍国少年」は、敵機を見逃さぬ訓練のために、と青空を見つめ続けた。親に黙って海軍甲種飛行予科練習生、通称「予科練」の試験を受け、合格した。終戦直前の1945年7月、海軍通信学校がある山口県防府へ。

 「小さいころから『お国のため』という教育を受け続け、国のために死ぬことに抵抗はなかったし、死への恐怖感は全くなかった」。家を旅立つとき、父は振り向かなかった。母は駅ホームで送り出す人垣の後ろから、そっと見送った。

 「貴様ら1人2人死んだってどうってことねえ」。班長の怒声が響き、殴られた。「秋田出身で泳げないとは何事だ」。泳ぎの訓練でしごかれた。ある時、上官が告げた。「特攻隊に志願する者はいないか」と。特攻隊が死を意味すると知っていたが、ためらいはなかった。上官は「一人息子と長男は跡取りがいなくなるから除外する」と言ったが、「弟がいるから何とか入れてください」と食い下がり、参加を認められた。7月末のことだった。

 8月15日の玉音放送。「もっと頑張れ」と言われたのかと思った。しかし、分隊長からは「戦争に負けた」と伝えられた。「終わったんだ」。感慨はなかった。翌16日、分隊長に「貴様は秋田だったな。帰る家がないぞ」と、新聞を見せられた。目に「秋田全滅」の文字が飛び込んだ。29日に除隊し、貨物列車に揺られ、秋田へ戻った。家は奇跡的に残っていた。母が家から飛び出して迎えてくれた。

 「もう半年、戦争が続いていたら、この世にいなかったな」。今、佐藤さんは振り返る。張り詰めた緊張感はしばらく消えなかったが、時の流れとともに、あの時代の異常さに気付かされた。「特攻隊の映像を見ると、涙が出てくる。自分と重なってね」

 「秋田市観光案内人の会」の会長を務める佐藤さんは週に数回、秋田市のポートタワー「セリオン」に立ち、ボランティアガイドを務めている。ガイド説明の中で、土崎空襲や自身の体験談をはさみ、静かに問いかけている。「私も特攻を志願したことがあってね」

 佐藤さんは言う。「昔は戦争は駄目と言わなくても良かったが、最近は違う。戦争を知らない世代が、してもいいと考える風潮がある。でも、命は粗末にしてはいけない。二度と戦争をしないように、語り継いでいきます」【百武信幸】

毎日新聞 2007年8月15日