「ある日、締め切りの迫った論文の原稿を徹夜で書き上げ、
「今日こそは東井先生に見てもらって発送しよう」と、
張り切って登校しました。
二時間目の休み時間に校長室へ行ってみましたが
姿が見えません。
教頭先生に尋ねても
「さあ、どこへ行きはったんか知らんで」
と言われます。
何度も何度も校長室をのぞきに行きました。
何度行っても姿が見えません。
私はだんだんイライラしてきて、
「行き先ぐらい、ちゃんと言ってでればいいのに」
と悪口をつぶやいていました。
昼休みも、午後も、放課後もおられません。
とうとう帰る時間になっても東井先生の姿は見えませんでした。
「今日、この原稿を送らないと、締め切りに間に合わないし、どうしよう」と
イライラをつのらせ困り果てました。
ちょうどそのころ、妻が八鹿病院に入院していたので、
私は病室から学校へ、学校から病室への生活をしていたのです。
その日の夜、病室に入ると妻が「お父ちゃん・・・」
と言って泣きながら私を見つめるのです。
「何だ?何があった?」と尋ねても、
涙にむせんでなかなか話せないのです。
やっと
「今日、東井先生がお見舞いに来てくださって、一日中看病してくださったんです・・・・」
「みんなの大切な校長先生です。看病していただくのは有りがたいですが、
私などが一人占めするわけにはいきません。どうか学校に帰ってください」と、
何度もお願いしたのですが、
「学校はお父ちゃんたちが、きちんとやってくれているので心配せんでもええで・・・」
と言って、午後もずっと看病をしてくださったと言うのです。
妻は大手術をした直後でしたから、
背中に手を入れて持ち上げるようにしていないと、
絶えず激しい痛みが襲ってくるのです。
前の夜は私は論文を書きながら、
何度も手を入れて背中を持ち上げ、
その為に首も肩もパンパンに張っていました。
妻の背中には空気枕を入れて出勤したのです。
東井先生は「お父ちゃんの代わりは出来んけど・・・」と言いながら、
一日中妻の背中に手を入れて持ち上げ、
痛みをやわらげていてくださったと言うのです。
私は体中が硬直して、ガタガタ震えが止まらなくなりました。
一日中、東井先生の悪口を言い、腹立ちを募らせていた情けない自分、
そんな私のために、妻のために東井先生は、
その大切な時間を使って、骨の折れる看病をしてくださっていたのです。
ある教師の東井先生に対する思いを述べた文章です。
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貧困の地から苦労を重ねて教師になられた東井先生
人を思う気持ちが教育の原点だと教えられます。
こんな素晴らしい先生がおられたこと
そして今の時代にもそんな先生がいらっしゃることを信じております。
子供たちが本当の意味で心豊に育つには
無償の愛情が必要なのだと思いますが、
それは、決して家庭だけでなく学校という場でも
あるのかもしれないと思うのです。
時、まさに卒業シーズン
恩師という人の顔を思い浮かべてみるのもいい。
その先生が五年の担任になった時
一人、服装が不潔でだらしなく、
どうしても好きになれない少年がいた。
中間記録に先生は少年の悪い所ばかり、
記入するようになっていた。
ある時、少年の一年生からの記録が
目に留まった。「朗らかで友達が好きで、
人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。
間違いだ。他の子の記録に違いない。
先生はそう思った。
二年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、
時々遅刻する」と書かれていた。
三年生では「母親の病気が悪くなり、疲れて教室で
居眠りする」とあり、四年生になると「父は生きる意欲を
失い、アルコール依存症となり、子供に暴力をふるう」
先生の胸に激しい痛みが走った。だめだと決めつけていた子が
突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に
立ち現れてきたのだ。先生にとって目を開かれる瞬間であった。
放課後、先生は少年に声をかけた
「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強をしていかないか?
分からないところは教えてあげるから」
少年は初めて笑顔をみせた。
それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。
授業で少年がはじめて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。
クリスマスの午後だった。少年は小さな包みを先生の胸に押し付けてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていた
ものに違いない。
先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、きがつくと飛んできて、
先生の胸に顔を埋めて叫んだ。
「ああ、お母さんの匂い!きょうはすてきなクリスマスだ」
六年生では先生は少年の担当をではなくなった。
卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。
「先生は僕のお母さんのようです。そして、いままで出会った中で
一番素晴らしい先生でした」
それから六年後。またカードが届いた。
「明日は高校の卒業式です。僕は五年生で先生に担当してもらって、
とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」
十年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えたことへの感謝と
父親に叩かれた経験があるから患者の痛みが分かる医者になれると記され、
こう締めくくられていた。
「僕はよく五年生の時の先生のことを思い出します。
あのままだめになってしまう僕を救ってくだっさった先生を、
神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって
最高の先生は、五年生の時に担任してくだっさった先生です」
そして、一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。
「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。
たった一年間の担任の先生との縁に少年は無限の光を見出し、
それを拠り所として、それからの人生を生きた。ここにこの少年の
素晴らしさがある。
人は誰でも無数の縁の中に生きている。無数の縁に育まれ、
人はその人生を開花させていく。大事なのは、与えられた縁を
どう生かすかである。
藤尾秀昭氏著
「小さな人生論」より
私淑させて頂いている森信三先生も
「人間は自己に与えられたものを十二分に生かして実現することこそ
人間の生き方の根本心情でなければならないと思う」
と、仰られていました。
人としての生き方を見つめなおす一日でした。
一人、服装が不潔でだらしなく、
どうしても好きになれない少年がいた。
中間記録に先生は少年の悪い所ばかり、
記入するようになっていた。
ある時、少年の一年生からの記録が
目に留まった。「朗らかで友達が好きで、
人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。
間違いだ。他の子の記録に違いない。
先生はそう思った。
二年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、
時々遅刻する」と書かれていた。
三年生では「母親の病気が悪くなり、疲れて教室で
居眠りする」とあり、四年生になると「父は生きる意欲を
失い、アルコール依存症となり、子供に暴力をふるう」
先生の胸に激しい痛みが走った。だめだと決めつけていた子が
突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に
立ち現れてきたのだ。先生にとって目を開かれる瞬間であった。
放課後、先生は少年に声をかけた
「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強をしていかないか?
分からないところは教えてあげるから」
少年は初めて笑顔をみせた。
それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。
授業で少年がはじめて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。
クリスマスの午後だった。少年は小さな包みを先生の胸に押し付けてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていた
ものに違いない。
先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、きがつくと飛んできて、
先生の胸に顔を埋めて叫んだ。
「ああ、お母さんの匂い!きょうはすてきなクリスマスだ」
六年生では先生は少年の担当をではなくなった。
卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。
「先生は僕のお母さんのようです。そして、いままで出会った中で
一番素晴らしい先生でした」
それから六年後。またカードが届いた。
「明日は高校の卒業式です。僕は五年生で先生に担当してもらって、
とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」
十年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えたことへの感謝と
父親に叩かれた経験があるから患者の痛みが分かる医者になれると記され、
こう締めくくられていた。
「僕はよく五年生の時の先生のことを思い出します。
あのままだめになってしまう僕を救ってくだっさった先生を、
神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって
最高の先生は、五年生の時に担任してくだっさった先生です」
そして、一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。
「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。
たった一年間の担任の先生との縁に少年は無限の光を見出し、
それを拠り所として、それからの人生を生きた。ここにこの少年の
素晴らしさがある。
人は誰でも無数の縁の中に生きている。無数の縁に育まれ、
人はその人生を開花させていく。大事なのは、与えられた縁を
どう生かすかである。
藤尾秀昭氏著
「小さな人生論」より
私淑させて頂いている森信三先生も
「人間は自己に与えられたものを十二分に生かして実現することこそ
人間の生き方の根本心情でなければならないと思う」
と、仰られていました。
人としての生き方を見つめなおす一日でした。
日本には昔から
季節の変わり目に体を清め、厄を祓う習慣がありました。
現在も残る端午(五月五日)や七夕(七月七日)をはじめとする
五節句はもとは中国から渡ってきた習慣です。
古代中国では3月の最初の「巳(み)」の日に水で体を清め、
宴会を催し厄を祓うという祭りがありました。
その「上巳の節句」が日本に伝わり、日本古来からあった人形(ひとがた)に
厄を移す風習などと混ざり合い、
平安時代になると、祈祷師を呼んで祈りをささ げ、人形をなでて厄を移し、
供物を備えて水に流すと言った祭りが毎年行われるようになっていきました。
またそのころ、上流階級の女の子の間で「ひいな遊び」といって、
紙で作った人形と身の回りの品に似せてつくったおもちゃの家財道具を使った、
ままご と遊びが盛んに行われていたようです。
平安時代の随筆や物語にもそのような場面が登場します。
室町時代には上巳の節句の厄祓い行事は3月3日にほぼ定まってきましたが
この頃はまだ禊ぎの行事と して人形を流していたようです。
「ひな祭の歴史より」
今年も雛人形を出さずじまいでした。
せめてチラシ寿司を食べて
季節を感じたいと思います。