小さい頃からなんとなく感じていたけど
大きくなってきて、だんだん自分でもわかってきた。
やっぱりどうもおかしい。
私って、他の子と違う?
どーも。
イラストレーターときどきDIYer
ココロ系ヒトリゴトが好きな
タナビキミキです
黒板の文字が小さいと、何度も確認してしまって
ノートをとるのがすごく遅くなって
書こうとしてたのに次々に消されてたりして
書くのを諦めてしまった
とか
飛んだり走ったりするのは得意なのに
遠くから飛んでくるボールが苦手で
球技はからきしダメ
とか
「そんなの、性格じゃないの?」
「いやいや単にやる気の問題だよ」
って思われてたことには、本当は原因があったの。
実は
目が見えにくかったんだよね。
だから黒板が見えにくかったし
飛んでくるボールが苦手だった。
ただそれだけのことなのに
眼科に行くことも知らない
目が悪い、ってこと自体にも気づかない。
気づいた人が保護者に伝えても
「うちの子はそんなことありません!」
って過剰反応する。
眼科に行って、近視だと診断を受けること
先生やお友達やその保護者に伝えること
ただそれだけで、
「前の席と変わってあげようか?」
とか
「ボールが見えにくいなら後ろの方にいていいよ」
と言ってくれるお友達が出てきたり、
先生は大きめの字で板書してくれるようになったり、
「メガネ」や「コンタクトレンズ」、
「レーシック」なんかもあるよ、っていう
支援の情報を得られるようになったりする。
そしてそれらを手に入れたら、とっても楽になる。
ただそれだけのこと。
当たり前のことって思わん?
何にも恥ずかしいことでもなんでもないって
思うよね?
メガネをかけてるからって差別することなんてないよね。
その子に、
「あなたは実は近視なの」と
親が重々しく伝えることもさほどないだろうし、
周りの人にどう伝えるべきかと悩むこともないと思う。
「メガネかける?コンタクトにする?」
くらいのことでさ。
ところがこれが、
「発達障害」
に置き換えると
突然、景色が変わってしまう。
ただ単に発達障害の特性で
板書が苦手なだけ
球技が苦手なだけ
おんなじやん
後ろの席だと意識が散漫になる特性なら、
そう伝えれば
「前の席と変わってあげるよ」
というお友達が出てくるだろうし
無理に球技をさせることも減るだろう。
そういう特性だったらこういう支援グッズが便利、
とかいう情報も得られるようになる
おんなじなのに
近視でいう
『眼科に行って、近視だと診断を受けること
先生やお友達やその保護者に伝えること』
ができず、
診断を仰ぐことも知らない
自分がちょっと違う?ってこと自体にも気づかない
気づいた人が保護者に伝えても
「うちの子はそんなことありません!」
って過剰反応する。
そして
本人が苦しんでいる
ってことがやけに多い。
近視なら、そんな簡単で差別もないことなのに、
「苦手」とか「ハンデ」って意味では同じなのに、
なんで発達障害ってだけで、
そんなオオゴトにとらえるの?
わたしは不思議。
近視なら学校でも視力検査がある。
検査したら、単なる「見えにくい」がなぜなのかがわかる。
近視なのか、遠視なのか、乱視なのか、斜視なのか、色盲や色弱なのか。
光に弱いというのもある。
それぞれに応じたメガネをしたり、
いろんな対応ができる。
発達の凸凹も
検査して苦手を把握することができれば
「苦手なことはこうして解決」
「こういうふうにすればわかりやすい」
ってわかるのに。
そんな指針が、今ではとてもきめ細やかに確立されていて、
うまく利用する方が
本人も保護者も楽になれるのに。
って
AD-HDだと大人になってからわかったわたしは思うわけです。
もっと早くわかってたら、と。
未だに 理解してもらえなくて、
伝えるだけでドン引きな人も沢山いる世の中はどうかと思う、今日この頃。
『発達障害』だから!!
なんて重たい十字架背負わされてるチックな人
子どもにカミングアウトするべき?しないべき?
と白熱した談義を繰り広げる人
この子はわたしがいなけりゃ何もできないのよ自慢?
そんなもん、マジいらんとわたしは思う。
全くどこもかしこも何もかも完璧な人間なんかおらんのやで。
それぞれの欠けた部分を自覚して報告し合い
どうすれば快適に生きて死ねるかを
一緒に考えられる仲間が見つかればいいね。