Courtesy of Damian Gadal
通例、悪霊の問題がある人には、ものすごいプライドがあります。場合によっては、人格のほとんどがプライドでできていると言っても過言ではない…そういうケースがあります。プライドがものすごいからこそ、悪霊が入るのです。
ここで「プライド」と言っているのは、この世的な虚栄心、自尊心、自分を他よりも優れていると思う心 -- そうしたものではなく、「イスラエルの神に反する反抗心」のことです。(もっとも、それらの人には、この世的な虚栄心、自尊心、自分を他よりも優れていると思う心もどっさり、あります。)
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悪霊の追い出しの際に問題になるのは、この「イスラエルの神に反する反抗心」によって出来上がっている人格を、完膚なきまでに叩きのめす必要があるということです。
どういうことかと言うと、この「プライド」は、その人の家系が崇拝していた、イスラエルの神以外の神、日本で言えば八百万の神のどれかに当たるもの、あるいは仏教で言えば、阿弥陀如来、不動明王などの諸仏、そうした神々や諸仏の大元にあるそれぞれの霊的な実体。そこからこのプライドが来ているからです。
従って、イスラエルの神に対して、猛烈に反発します。イスラエルの神の御子であるイエスの名と権威によって、その人の中にいる悪霊が追い出されることに、猛烈に反発するのです。
その大元にある霊が反発させるのです。その人の人格の奥深くにある、神々や諸仏をスピリチュアルを崇拝してきたその崇拝の大元にある霊が反発させるのです。
ものすごい崇拝をしてきた家系に属している方や、ものすごいスピリチュアルへの執着をしてきた方には、人格のかなりの部分をこのプライドが占めています。場合によっては、90%以上の人格がこのプライドによって出来上がっていますから、その方の悪霊の追い出しは、ハンパではありません。
その人格を、その人が進んで、壊す…ということに同意するならば、悪霊を、イエス・キリストの名と権威によって、追い出すことができます。しかし、その人が、イスラエルの神に反抗するプライドから出来上がっている人格を、多少でも、温存しておきたいと思うのであれば、悪霊の追い出しは、できません。
これは、新約聖書の考え方で言えば、「キリストの死にあずかるバプテスマ」(ローマ6章)を受けること。それに、その人が、心から同意するということです。ローマ人への手紙6章をよく読んで下さい。
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このプライドと、きれいさっぱりお別れをしない限り、その人からは、悪霊が出ていきません。
悪霊の追い出しの準備をする段階から、この「霊」がいちいち反抗します。
「なぜ、私がこうしたことをしなければならないのか?」
「なぜ、こんな思いをしなければならないのか?」
「このことは、本当に必要なのか?」
「なぜ、これほどまでに苦しまなければならないのか?」
そういう反抗の思いが、次から次へと湧いてくきます。
それは、大元にある神々や諸仏や、スピリチュアルの大元にある陰陽道、悪魔崇拝、ギリシャの神々などの「霊」が、追い出されたくないために、反抗しているからです。自分の人格の中にある、そうした「霊」からくる、「イスラエルの神に対する反抗心」が、そのようなことを思わせるのです。
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その人が、主イエス・キリストの名と権威によって、悪霊から完全に自由になるには、その「プライド」を、完膚なきまでに破壊し尽くさなければなりません。なぜなら「イスラエルの神に反抗するプライド」だからです。「イスラエルの神の御子であるイエスの名と権威」に反抗するプライドだからです。
これはもちろん、イスラエルの神に反抗したサタン/悪魔から来ています。聖書的な世界観に立てば、すべての悪霊は、天から落とされたルシファーにくっついて天から落とされた御使いが(黙示録12章)、それぞれの土地で神として崇拝されるようになった、そうした地域地域のサタン/悪魔=「イスラエルの神に反抗する霊」の手下として存在しています。
その霊から来るプライドを完全に破壊しない限り、悪霊は出ていきません。
プライドが、生来、その悪霊のキャラクターを帯びていますし、プライドがその悪霊の棲家になっていると言うこともあります。プライドと悪霊は不即不離です。
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その人の人格の90%がプライドで出来上がっている場合、これは、その人の人格が崩壊するギリギリの所まで行かないと、悪霊の追い出しが完遂しないということになります。それはつまり、「キリストの死にあずかるバプテスマ」の「死」が、その人の過去の一切を葬り去って、後には、ほとんど何も残らないという所まで行かないと、その人の悪霊は出ていかないということです。
そうして、ローマ人への手紙6章に克明に書かれているように、「古い人」(プライドの人)がキリストと共に十字架に付けられて、死んで、キリストと共によみがえるのです。今度は聖霊によって。
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この、非常に辛い所を通らないと、その人の悪霊は出て行きません。
従って、むしろ、悪霊を追い出さない方がいい人がいます。
辛い所は通らずに、悪霊と共存して生きていく方が良い人がいます。
イエス・キリストは、自分の十字架を背負って私について来ない人は、私にふさわしくないと言っています。悪霊が追い出されるとは、イエス・キリストと同じように、自分の十字架を背負って、一生、イエス・キリストの後をついて行くということです。その覚悟がない人は、むしろ、悪霊と共存する人生を歩んだ方が良いかも知れません。すべてが聖書に書いている通りに展開します。