Courtesy of J_D_L
この歳になって、このように、まったく新しい幸せを、毎日のように経験できるようになるとは思わなかった。
そもそも、幸せとは、私の人生においては、縁遠いもので、思い返せば、高校生の頃に現代国語の課題で読まされた三木清「人生論ノート」とか、亀井勝一郎の幸福に関する短文によって、教育的に読まされて、現代国語的に考えさせられて、優等生的な解答を書く…つまり、幸せとはこれこれこのようなものである、と知的に理解する類のものであって、考えたり論じたりはするけれども、実生活においては、あまり感じることのない、自分とは縁のないものだと考えていた。
現代の日本人のほとんどが同じように考えていると思う。「幸せか…へっ」みたいな。「幸せ」のことを考えると気恥ずかしくなって、「幸せ」のことを考えるのは、中学生かせいぜい高校生であって、世の中の辛酸がわかるようになると、普通は「幸せ」のことを考えたりしないものだと、大人ぶって考えるようになる。それ以降は「幸せ」について、真面目に考えることはなくなって、人生を送り暮らす。そうして四十になり、五十になる。少なからぬ人は離婚を経験する。結婚が続いていても、夫婦関係は惨憺たるものになっている。子供も育つが…。
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イエス・キリストが十字架の自己犠牲と三日目の復活によって切り開いた「幸せ」は、創世記でアダムに語りかけていた創造主である神が、自分の「親父/アバ」になって、親しく交わって下さる、おおよそ、現代人的な論理的な受け止め方では受け止め切れない、想像をはるかに超えたものだ。しかし、福音書を曇りのない目で読めば、それがそのままに書いてある。また、パウロ書簡の各所にも、それがその通りに書いてある。
創世記には、創造主である神がアダムに語りかける場面がある。あれと同じように、イエス・キリストを信じる信仰によって「親父/アバ」になって下さった神が、言い換えれば、天の父が、自分に語りかけて下さる。それも人生において一度、二度と限られた回数ではなく、毎日のように。
これはカルト的な信仰でも何でもなく、ヨハネの手紙第一の冒頭に書かれていることだ。ヨハネのグループが1世紀当時に行っていた御父と御子との交わり。これはヨハネの福音書4章に書かれている、天の父は霊であるから霊とまことによって礼拝しなければなりませんという事。それとニアリー・イコールだ。この霊とまことによる礼拝は、天にいらっしゃって、天の父の右の御座に着かれていて大祭司の役目をも持つイエス・キリストを通して行うから、つまりは御父と御子との交わりということになる。しかも、それは天の父から御子イエスの名によって遣わされた霊である聖霊を介在させて、その交わりが実現する。この交わりは純粋に霊的なものだ。
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残念ながら人がこしらえた”神”である三位一体の側に行ってしまった教会群 -- それは西暦325年〜381年といったはるか昔に起こった -- では、使徒の働きに記されている聖霊が下らないから、この御父と御子との交わりを経験することがない。
従って、創世記のアダムに神が語りかけるのと同じことを、経験することができない。おそらく、天の父からいつも声をかけられている。それが主イエス・キリストの十字架と復活のゆえに可能になっていると書いても、また、言っても、三位一体の教会群にいる人達にとっては、ちんぷんかんぷんだろう。
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この生ける神である天の父。天の父がいつもおそばにいるという感覚。その右の御座ではイエス・キリストが執り成して下さっているから、イエス・キリストもいつもおそばにいらっしゃる。そうして自分の内には、天の父から御子イエスの名で遣わされた神の霊である聖霊がいる。ヨハネ14章〜17章で繰り返し繰り返し説明されている「信じる人」がいただける霊的な図式だ。
絶対的な安心感が、そこにはある。
空も風も木も草も、その辺にいる小動物も、そこを歩いている一人ひとりの人間をもお造りになった神が、イエス・キリストのゆえに、自分の「親父」となって、影に日向に自分に付き添って下さっている。声をかければ、答えて下さる。
イエス・キリストは「この世のものとは異なる平安」と書いた。まさにそうした絶対的な平安がある。
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また、この安心感=平安=言葉に尽くせない幸せな感覚は、内から湧いてくるものでもある。こんこんと泉のように湧いてくる。これをイエス・キリストは「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言っている(ヨハネ7:38)。
これを、プロテスタント教会のように、ヨハネの福音書7章38節に、これこれこのように書いてあると引用するのではなく、これを、毎日、経験する。経験できる。聖句を、引用するのではなく、経験できることが違う。
イエス・キリストのお言葉は、すべて、引用するものではなく、経験できる神の言葉。すべてそのままに成就する神の言葉。その成就を、毎日の生活のありとあらゆる場面で見ることになる。それが「生ける神」。神が生きてそこにいらっしゃること。この神は、イエス・キリストのゆえに、天の父である。アダムをお造りになった神である。
この神から、恵みと慈しみが追いかけてくる祝福がやってきて、自分や家族や周囲を満たして下さる。