村上春樹の「孤独」 - 孤独の霊について | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

撮影:今泉大輔

 

 

孤独は、近代文学のテーマであり、「罪と罰」のラスコーリニコフから「羊をめぐる冒険」の僕に至るまで、その主人公と不即不離の関係にあります。孤独であるから、ストーリーがある。ストーリーは孤独を起点として出発する。そうしてまた孤独に戻る。そういう図式があると思います。



イスラエルの神が、ご自身の愛される民「イスラエル」をメシアであるイエスによって救うという、旧約聖書と新約聖書を貫くテーマがよくわかってくると、「孤独」は「イスラエル」の対極なのだということが見えてきます。

「イスラエル」は、本源的に「家族」です。アブラハムを族長とする家族です。十二支族に分かれるとは言え、同じ血を引く家族です。また、異邦人である我々も、イエス・キリストを信じる信仰により、このイスラエルに加えてもらえます。我々も、イスラエルの家族になるのです。それは天の父を本当の父とする家族であり、主イエス・キリストが長兄である家族です。神の家族です。

家族ですから、皆が助け合います。家族ですから、皆が愛し合います。イエス・キリストの新しい戒めで「互いに愛し合いなさい」と言われている所以です。イエス・キリストは、あなた方は先生と呼ばれてはなりません。「兄弟」ですと説いています。同じ意味です。家族なのです。



村上春樹的な孤独は、現在を生きている人のほぼ全員が持っているものです。

働いている場所で孤独。
学校に通っていて孤独。
通勤や通学の時に孤独。
家に帰っても孤独。
土日も孤独。
結婚していても孤独。
子供がいて家族になっていても孤独。
子供も孤独。
親も孤独。

教会に毎週日曜日に通っていても孤独。
教会でも孤独。
礼拝中も孤独。

この「孤独」は、近代現代固有の悪霊であり、人のプライドと不即不離にあるものだということが、悪霊の追い出しのケースをいくつも見てくると、よくわかります。



近代小説は客観的な位置にいる書き手が主人公の一挙手一投足を「見ながら」記述して行きます。書き手はある意味で神のような立場にいます。

現代人は、ほとんどの人が、同じように神のような立場から自分の行動を客観的に見ています。自分の行動や生活の細部を、神のような立場から眺める自分がいます。そうして、自分と他者をひき比べます。自分は劣っているのか、優れているのか。自分の家族は劣っているのか、優れているのか。ほぼ全ての生活行動が、自分は優れているのか、劣っているのかを確かめるためになされるようなところがあります。

他者と比較して、自分が優れていればよし。
自分が劣っていれば落ち込む。
その繰り返しです。

これがその悪霊のなせる業です。「孤独の霊」と言って良いでしょう。



悪霊は、それぞれキャラクターがあり、行うことは千差万別ですが、一つ共通するのは、「その人の望まないことを、繰り返し繰り返し、その人にさせる」ということがあります。望んでいないのに、そういう行動をしてしまうのです。そうして、それを繰り返します。朝昼晩。1年365日。

偏執狂という言葉がありますが、ある個別具体的な領域における偏執狂。それが悪霊だと言っていいでしょう。例えばセックス中毒も、それをさせる悪霊です。淫乱の霊、セックス中毒の霊、乱交(オージー)の霊、などなど。

孤独の霊は、孤独を繰り返させる霊です。来る日も来る日も孤独であり続けます。自分が望んでいないのに、孤独から始まり、孤独に終わる日々を繰り返しその人に強います。



現代のキリスト教会に通う人達のほとんどが、孤独の霊に取り憑かれていると受け止めています。過去に十数年通った三位一体を掲げる教会でも、そうした方々を見ましたし、私自身がそうでした。また、色々な集会やネットで交流したクリスチャンのほとんどが、本源的な孤独を抱えていました。それから逃れる術を知りませんでした。

みんな村上春樹的な孤独を抱えていました。親でも子供でも。



イスラエルは家族であり、兄弟姉妹です。
イエス・キリストを長兄とする家族です。
天の父が本当の父になります。

使徒の働きで記されている初代教会が本当に回復すると、その、家族であることがよくわかる毎日を送ることができるようになります。そこには「孤独」がありません。
孤独の霊は、イエス・キリストの名と権威によって駆逐されます。怒鳴りつけられて、居場所がなくなって、出て行きます。

孤独は、イエス・キリストの名と権威によって、怒鳴りつけられて、叱られまくらない限り、出て行きません。