Courtesy of Pedro Szekely
イエス・キリストの神の国の福音は、この世の原理原則とは全く対極にある価値観の180度転換であり、考え方の刷新であり、これまで生きてきた(日本の場合は直接的間接的に土着の宗教の影響を受けて生きてきた)生き方の完全な否定であり、全く新しく、主イエス・キリストにあって神の人として生きることの始まりであり、アブラハムの子孫として、永遠の祝福を受け継ぐことです。
わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
マタイ10:34
というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。
兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
マタイ10:20-22
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、
この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」
ルカ18:29-30
従って、イエス・キリストを本当に信じるということは、これまでとは全く違った人生を歩むということです。それは、以下のローマ14:7-8にある通り、生きるにしても、死ぬにしても、主イエス・キリストのためにするのです。そうして、私たちは、主イエス・キリストのものになっています。この主イエス・キリストを通じて、全知全能の神であられる天の父の息子、娘となるのです。
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
ローマ14:7-8
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本当にイエス・キリストを信じていれば、使徒の働きに記されているのと同じように、本当の聖霊が下ります。聖書を引用して説明をするだけの、文字として存在している聖霊とは異なります。頭の中の理解、概念として存在しているだけの聖霊とは異なります。パウロが、聖霊は、力と愛と慎みとの霊ですと書くように、神の力(デュナミス=奇蹟と訳されることもある言葉)を帯びており、イエス・キリストの愛、天の父の愛と直結しており、しかも慎みがあります。生ける神である天の父から御子イエスの名によって信じる人に遣わされる霊です。生きています。喜びも悲しみもします。経験することによってしか理解できない霊です。言葉でいくら説明しても、理解できない霊です。神から来る霊です。天の父から来る霊です。創世記でアダムに吹き込まれた命の息と同じ霊です。それが入ると、死んでいた人が生き返ります。この世の肉の人が、神の人になるのです。それがイエス・キリストの名によって、十字架と復活のゆえに、それを信じるがゆえに、告白するがゆえに起こるのです。
従って、聖霊を受けている人は、パウロが書くように外見からはわかりませんが、内に聖霊をいただいているがゆえに、その自覚があります。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
第一コリント2:14-15
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本当にイエス・キリストを信じていれば、本当の聖霊が下り、マルコ16章末に書いてある御言葉に伴うしるしが伴うようになります。これは、主イエス・キリストにあって、生ける神であられる天の父が、神としての御業をなさっているということが、誰の目にもはっきりとわかる色々の出来事です。展開です。出会いです。奇蹟です。神の御業です。それが、イエス・キリストの名によって働くようになります。これもまた経験してみないとわかりません。世の人には不信仰がありますから、話を聞かされただけでは信じられません。経験することで、御言葉に伴うしるしとはこういうことなのかとわかります。聖霊が理解させてくれます。
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イエス・キリストは度々、弟子たちの不信仰を叱っていました。
不信仰の反対は、信仰があるということです。
イエス・キリストを本当に信じている人には、本当の信仰があるので、イエス・キリストがおっしゃった通りのことを行います。そうして、そこに、イエス・キリストの名に応える形で、全知全能の天の父が動かれるために、そのことが起こります。これが、「言った通りになる」ということです。
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
マルコ11:23
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本当にイエス・キリストを信じている人は、黙示録の最後の方にある「神の幕屋が人共にある」を経験することになります。この人は、イエス・キリストの言葉を守りますから、天の父と御子イエスとが、その人の所にやってきて、霊的な幕屋を設けて下さり、そこに住んで下さいます。この、おそばにいる天の父と御子イエス。このおそばにいるお二方と、その人は、一緒に生活をします。朝起きる時も、夜寝る時も。仕事をする時もご飯を食べる時も。常に一緒です。常に、第一ヨハネ冒頭にある御父と御子との交わりの中にあります。これが神の国です。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
黙示録21:3-4